ここでは東条英機内閣の発足に五高の世界はどのように変わったか、昭和15年入学組から同17年入学組の生徒らにスポットを当て軍人と五高生の対立、気比丸沈没と先輩の死を振り返る。
∇東條内閣が進めた学制改革は・・・東條は就任後相次いで学制改革に着手した・これは日本経済は緊迫していたこと。中国の戦場は途方もなく広がっていたこと。兵員は足りなく戦争は緊迫していたことなどあげられる。
昭和16年「大学学部等の在学年限の臨時短縮に関する件」の公布・・・これは「修業年限は当分の内夫々6月以内之を短縮することを得」と言うものであった。17年8月には「中・高等学校学年短縮要綱」を決定し11月には「大学学部等の在学年限又は修業年限の昭和18年度臨時短縮に関する件」を公布し18年度も学生の修業年限を6か月乃至3ヶ月繰り上げ実施を決定した。昭和18年になると1月に高等学校令中改正が行われ高等学校は「皇道の道に則り男子は清深なる程度に於いて高等普通教育を施し国家有用の人物を錬成し大学教育の基礎たらしめるを以て目的とす」と定められ大正7年に高等学校令が制定されて以来の大改正が行われた。3月には「大学学部等の在学年限又は修業年限の臨時短縮に関する件の中改正」で大学予科の高等学校の修業年限は3年制が2年制になったのである。
★3年制から2年制へにより
昭和14年4月の入学組には17年2月16日には第3学年の叙別式が行われ早くも修業年限短縮の影響が出始めていた。文科甲115人、乙32人、理科甲113人、乙36人、この時の卒業生の中には元農林事務次官三善信二氏がある。
15年4月の入学組には17年4月1日に第3学年が始まり修業年限が半年短縮されたため9月30日までであった。文甲104人文乙32人、理甲102人、理乙29人、すなはち17年には年に2回の卒業生を送り出したことなった。卒業生には内田健三、伊藤圭一、斉藤太一、松下勝、谷川雁等があった。
17年のころになると戦線は拡大し連戦連勝のニュースに国民は沸き立っていたが、戦局は逼迫し6月のミッドウエイ大海戦では大敗北を喫しソロモン諸島、ガナルカナル等では2万人以上の死者を出した。12月には一万の兵がブーゲンビル島に撤退、大本営は知識人の工作者の思想で撤退を退却と言わず12月31日には「転進」と発表するようになった。
谷川雁の想い出では「8月の東京大学受験で無試験と思っていたところ志願していた社会学科と心理学科の進学希望者が多く試験があった。ドイツ語のテスト中に窓の外にすざましい音を立てて雷が落ちた。・・・落雷は日本軍の敗退を象徴するように思えて、日本の失敗を信じた。全く詩人らしい描写である。
16年4月の入学組も2年半で修了し18年9月には卒業した。文甲109人乙25人、理甲114人乙35人 平松守彦、磯部律夫、川原能雄、平野敏也、蔵土義文等があって高浜幸俊さんの話では、放校処分を受けた谷川が高浜を訪ねると一兵士の魂を以て日本の将来の危惧を抱いたとの感想を言っている。
17年4月の入学組は修業年限が2年になり19年3月には卒業している。文甲113人乙40人、理甲112人乙92人であった。九州では32人が92人になり極端に理乙の定員が増えている。
16年8月の「龍南学徒報国団」は訓令で「龍南学徒報国団特設隊」に編成され22日~27日まで全校で菊池郡合志村で陸軍射的場設置の土木工事に出動し11月18日~3日間2^3年生は鹿本の山内村や4け所に1年生は供合村へ奉仕作業へ、年2回の卒業で学科課程の変更授業数の変更等相次いだ。6月や10月には食糧増産の為農村への「学徒報国団特設隊」の出動は相次いである。心身鍛錬する人文課に文科も理科も一体になっている
近衛文麿について
1891年(明治24年)10月12日 - 1945年(昭和20年)12月16日)は、日本の政治家。勲等は勲一等。爵位は公爵。新字体で近衛 文磨とも表記される。
貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣(第57代)、拓務大臣(第13代)、班列、農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43代)、国務大臣などを歴任した。
∇東條内閣が進めた学制改革は・・・東條は就任後相次いで学制改革に着手した・これは日本経済は緊迫していたこと。中国の戦場は途方もなく広がっていたこと。兵員は足りなく戦争は緊迫していたことなどあげられる。
昭和16年「大学学部等の在学年限の臨時短縮に関する件」の公布・・・これは「修業年限は当分の内夫々6月以内之を短縮することを得」と言うものであった。17年8月には「中・高等学校学年短縮要綱」を決定し11月には「大学学部等の在学年限又は修業年限の昭和18年度臨時短縮に関する件」を公布し18年度も学生の修業年限を6か月乃至3ヶ月繰り上げ実施を決定した。昭和18年になると1月に高等学校令中改正が行われ高等学校は「皇道の道に則り男子は清深なる程度に於いて高等普通教育を施し国家有用の人物を錬成し大学教育の基礎たらしめるを以て目的とす」と定められ大正7年に高等学校令が制定されて以来の大改正が行われた。3月には「大学学部等の在学年限又は修業年限の臨時短縮に関する件の中改正」で大学予科の高等学校の修業年限は3年制が2年制になったのである。
★3年制から2年制へにより
昭和14年4月の入学組には17年2月16日には第3学年の叙別式が行われ早くも修業年限短縮の影響が出始めていた。文科甲115人、乙32人、理科甲113人、乙36人、この時の卒業生の中には元農林事務次官三善信二氏がある。
15年4月の入学組には17年4月1日に第3学年が始まり修業年限が半年短縮されたため9月30日までであった。文甲104人文乙32人、理甲102人、理乙29人、すなはち17年には年に2回の卒業生を送り出したことなった。卒業生には内田健三、伊藤圭一、斉藤太一、松下勝、谷川雁等があった。
17年のころになると戦線は拡大し連戦連勝のニュースに国民は沸き立っていたが、戦局は逼迫し6月のミッドウエイ大海戦では大敗北を喫しソロモン諸島、ガナルカナル等では2万人以上の死者を出した。12月には一万の兵がブーゲンビル島に撤退、大本営は知識人の工作者の思想で撤退を退却と言わず12月31日には「転進」と発表するようになった。
谷川雁の想い出では「8月の東京大学受験で無試験と思っていたところ志願していた社会学科と心理学科の進学希望者が多く試験があった。ドイツ語のテスト中に窓の外にすざましい音を立てて雷が落ちた。・・・落雷は日本軍の敗退を象徴するように思えて、日本の失敗を信じた。全く詩人らしい描写である。
16年4月の入学組も2年半で修了し18年9月には卒業した。文甲109人乙25人、理甲114人乙35人 平松守彦、磯部律夫、川原能雄、平野敏也、蔵土義文等があって高浜幸俊さんの話では、放校処分を受けた谷川が高浜を訪ねると一兵士の魂を以て日本の将来の危惧を抱いたとの感想を言っている。
17年4月の入学組は修業年限が2年になり19年3月には卒業している。文甲113人乙40人、理甲112人乙92人であった。九州では32人が92人になり極端に理乙の定員が増えている。
16年8月の「龍南学徒報国団」は訓令で「龍南学徒報国団特設隊」に編成され22日~27日まで全校で菊池郡合志村で陸軍射的場設置の土木工事に出動し11月18日~3日間2^3年生は鹿本の山内村や4け所に1年生は供合村へ奉仕作業へ、年2回の卒業で学科課程の変更授業数の変更等相次いだ。6月や10月には食糧増産の為農村への「学徒報国団特設隊」の出動は相次いである。心身鍛錬する人文課に文科も理科も一体になっている
近衛文麿について
1891年(明治24年)10月12日 - 1945年(昭和20年)12月16日)は、日本の政治家。勲等は勲一等。爵位は公爵。新字体で近衛 文磨とも表記される。
貴族院議員、貴族院副議長(第10代)、貴族院議長(第9代)、内閣総理大臣(第34・38・39代)、外務大臣(第57代)、拓務大臣(第13代)、班列、農林大臣(臨時代理)、司法大臣(第43代)、国務大臣などを歴任した。