玉菊(たまぎく)は江戸時代中期の遊女
元禄15年(1702) ー享保11年(1726)
安政6年(1859)出版 歌川豊国(国貞)絵
中万字の玉菊
享保の頃、新吉原中万字屋の遊女玉菊は人気の美女であったが
その素性(さが)が良いのは生まれつきで諸人に愛せられ
廓に比べられる者のはいなかった。
その頃拳相撲というのがもっぱら流行していて
玉菊はそれが上手で黒天鵞絨(びろうど)で拳まわしを作り
金糸で紋を縫わせ、拳相撲に用いていたと聞くが
享保十一年三月廿九日に死す。 年廿五才 浅草光感寺に葬る。
此の年の新盆より玉菊追善の軒燈篭が始まる
又、竹婦人(ちくふじん)の追善の浄瑠璃は三回忌の手向けとなる。
玉菊も河東の三弦をよく引いていたので
十寸見蘭州(ますみらんしゅう)も催して「水調子」を綴じものとした。
(梅素亭玄魚記)
だれやらの句に
『燈籠に なき玉きくの くる夜かな』