オオカミになりたい(遺言)

ずっとそばにいるよ

古今名婦伝 「中万字の玉菊」

2018-06-23 | 豊国錦絵

玉菊(たまぎく)は江戸時代中期の遊女

元禄15年(1702) ー享保11年(1726)

安政6年(1859)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

中万字の玉菊

享保の頃、新吉原中万字屋の遊女玉菊は人気の美女であったが

その素性(さが)が良いのは生まれつきで諸人に愛せられ

廓に比べられる者のはいなかった。

その頃拳相撲というのがもっぱら流行していて

玉菊はそれが上手で黒天鵞絨(びろうど)で拳まわしを作り

金糸で紋を縫わせ、拳相撲に用いていたと聞くが

享保十一年三月廿九日に死す。 年廿五才 浅草光感寺に葬る。

此の年の新盆より玉菊追善の軒燈篭が始まる

又、竹婦人(ちくふじん)の追善の浄瑠璃は三回忌の手向けとなる。

玉菊も河東の三弦をよく引いていたので

十寸見蘭州(ますみらんしゅう)も催して「水調子」を綴じものとした。

                  (梅素亭玄魚記)

だれやらの句に           

『燈籠に なき玉きくの くる夜かな』




古今名婦伝 「万治高尾」

2018-06-22 | 豊国錦絵

万治高尾(まんじたかお)は江戸時代前期の遊女。2代目高尾太夫

寛永18年(1641)- 万治3年(1660)

安政6年(1859)出版  歌川豊国(国貞)絵

 

万治高尾

元吉原なる三浦四郎左エ門が家の名妓二代の高尾は

下野國(しもつけのくに=栃木)下塩原郷塩釜村の産れで、父を長助という

高尾は万治三年庚子(かのえね)十二月廿五日江戸にて没す。

彼の故郷にあまたの紀念(かたみ)を送ったけれど

皆失って今は塵ばかりとなってしまった

只、高尾自筆の源氏、伊勢つれづれのたぐいのみ残っている。

これは彼が在世のとき送ったもので、真の筆蹟に疑いはなく

彼の俤(おもかげ)を今見るかの如くにかわるものである。

以上京傳の竒跡考

山谷橋の南西方寺(道哲庵)に墓あり。

             (梅素亭玄魚記)

辞世に                 

『寒風に もろくもくつる 紅葉かな』