愚痴らせて欲しい。
いい歳をして、今更と思う面もあるけれど、今夜は愚痴らせて欲しい。
血は水よりも濃いという・・・・・・・・・・
幼少頃から両親の愛情に恵まれず、それどころか父親はヒロポン中毒でDVの権化。
母親は三回変わり、いずれもそんな父が嫌で逃げてしまった。
祖父母との縁は薄く、可愛がってもらったためしがない。
祖母は弟を可愛がり、祖母は兄を可愛がっていた。まあ、私一人が父親に引き取られて早くから祖父母と離れていたからそれも理由なのだろうが。
そのお陰で父親のDVの餌食になった幼少期であったが。
父が女に逃げられ、子だくさんの親戚にたらい回しにされ、疎ましがられ、結局最後は大阪でひとりくらしていた祖父の元に預けられるが、弟一番の祖父とはやはりそりが合わず、殆ど家庭内暴力寸前までいった。
祖父は兄に対しては、古い人間で韓国人特有の儒教精神からなのか、何は無くても長男という面があった。
祖父が亡くなる時、今わの際に呟いたのは、兄と弟の名前だけだったそうだ。
要するに次男の私はみそっかすだったのだ。
そんな家から早く抜け出したくて、10代後半には蒸発同然にその家を脱した。
長年連絡もせず、たまに会いたいとも思わなかった。
まあ大阪市内の近くに居たのだが、警察に捜索されたこともないだろう。すればすぐ見つかる距離に居たのだから。
要するに、両親祖父母兄弟、親類縁者に関して、良い想い出というのが皆無なのだ。
私の人生の訓辞は、
「血は水よりも薄い。」
だった。そうなっても当然の多感な幼少期から青春期だった。
そして一人で何とか暮らし始め、収入を得ようとするが、十代後半の小僧っ子が考えることなどたかが知れている。
将来性もない、享楽的なだけの水商売を20年近くもやり、結局身体を壊して辞めることになる。
スキルも磨かず、学歴もないので、その後の仕事もろくなものに就けず、生活はいつも自転車操業のようなもの。
性格も歪んでいったのだろう。
人を人とも思わず、優しくも出来ず、いつも他人を疑ってかかり、人を愛することなど考えもしなかった。そして愛される人間になろうとも思わなかった。
こんな人間が、愛する人と家族になる?まったく想像の域外でしかなかった。
そう、祥一郎と出逢うまでは・・・・・・・・・・・・。
「僕はおっちゃんのこと、好きだよ。」と言ってくれる人と出逢えるとは・・・・
恋人と言っていい時期もあった。その後パートナー、伴侶、そしていつも居て当たり前の人、居なくてはならない人、居なくなったら自分自身の存在価値も無くなる人・・・・・・
関係性は徐々に変わっていったが、それでも祥一郎はこんな私を「好きだよ。」とときおり言ってくれた。
それまで人を愛する事を知らない、氷のような心で生きてきた私に、祥一郎は温かい人の温もりを注いでくれたのだ。
この20数年間、それまで不遇な人間関係しか無かった私にとって、ああこの世も捨てたもんじゃないと思えた年月だった。
喧嘩したことも、離別の危機があったことも、今となってはそれができたことが嬉しい想い出だ。
愛していたからこそ、出来たことなのだから。
なぜこの20数年の終わりが、私の命の終わりでは無かったのだろう。
なぜ祥一郎だけが、この世から離れて行ったのだろう。
散々な目に逢ったのだから、死ぬ時も一緒にしてあげようという、運命の女神の情がなかったのは何故なんだろう。
自分の寿命があと何年ほどあるのか知りたい。
あと数年と言うのであればまだ我慢も出来るかもしれない。しかし、あと何十年も生きるとしたら、私はその人生を降りる方向に動くかもしれない。
祥一郎・・・・・・・・
お前はそっちの世界で力をつけて、おっちゃんを穏やかに速やかにそっちへ行けるように計らってほしいよ。
もうまたあの、氷のような心で生きるのは嫌だ・・・・・・・・・・・。
いい歳をして、今更と思う面もあるけれど、今夜は愚痴らせて欲しい。
血は水よりも濃いという・・・・・・・・・・
幼少頃から両親の愛情に恵まれず、それどころか父親はヒロポン中毒でDVの権化。
母親は三回変わり、いずれもそんな父が嫌で逃げてしまった。
祖父母との縁は薄く、可愛がってもらったためしがない。
祖母は弟を可愛がり、祖母は兄を可愛がっていた。まあ、私一人が父親に引き取られて早くから祖父母と離れていたからそれも理由なのだろうが。
そのお陰で父親のDVの餌食になった幼少期であったが。
父が女に逃げられ、子だくさんの親戚にたらい回しにされ、疎ましがられ、結局最後は大阪でひとりくらしていた祖父の元に預けられるが、弟一番の祖父とはやはりそりが合わず、殆ど家庭内暴力寸前までいった。
祖父は兄に対しては、古い人間で韓国人特有の儒教精神からなのか、何は無くても長男という面があった。
祖父が亡くなる時、今わの際に呟いたのは、兄と弟の名前だけだったそうだ。
要するに次男の私はみそっかすだったのだ。
そんな家から早く抜け出したくて、10代後半には蒸発同然にその家を脱した。
長年連絡もせず、たまに会いたいとも思わなかった。
まあ大阪市内の近くに居たのだが、警察に捜索されたこともないだろう。すればすぐ見つかる距離に居たのだから。
要するに、両親祖父母兄弟、親類縁者に関して、良い想い出というのが皆無なのだ。
私の人生の訓辞は、
「血は水よりも薄い。」
だった。そうなっても当然の多感な幼少期から青春期だった。
そして一人で何とか暮らし始め、収入を得ようとするが、十代後半の小僧っ子が考えることなどたかが知れている。
将来性もない、享楽的なだけの水商売を20年近くもやり、結局身体を壊して辞めることになる。
スキルも磨かず、学歴もないので、その後の仕事もろくなものに就けず、生活はいつも自転車操業のようなもの。
性格も歪んでいったのだろう。
人を人とも思わず、優しくも出来ず、いつも他人を疑ってかかり、人を愛することなど考えもしなかった。そして愛される人間になろうとも思わなかった。
こんな人間が、愛する人と家族になる?まったく想像の域外でしかなかった。
そう、祥一郎と出逢うまでは・・・・・・・・・・・・。
「僕はおっちゃんのこと、好きだよ。」と言ってくれる人と出逢えるとは・・・・
恋人と言っていい時期もあった。その後パートナー、伴侶、そしていつも居て当たり前の人、居なくてはならない人、居なくなったら自分自身の存在価値も無くなる人・・・・・・
関係性は徐々に変わっていったが、それでも祥一郎はこんな私を「好きだよ。」とときおり言ってくれた。
それまで人を愛する事を知らない、氷のような心で生きてきた私に、祥一郎は温かい人の温もりを注いでくれたのだ。
この20数年間、それまで不遇な人間関係しか無かった私にとって、ああこの世も捨てたもんじゃないと思えた年月だった。
喧嘩したことも、離別の危機があったことも、今となってはそれができたことが嬉しい想い出だ。
愛していたからこそ、出来たことなのだから。
なぜこの20数年の終わりが、私の命の終わりでは無かったのだろう。
なぜ祥一郎だけが、この世から離れて行ったのだろう。
散々な目に逢ったのだから、死ぬ時も一緒にしてあげようという、運命の女神の情がなかったのは何故なんだろう。
自分の寿命があと何年ほどあるのか知りたい。
あと数年と言うのであればまだ我慢も出来るかもしれない。しかし、あと何十年も生きるとしたら、私はその人生を降りる方向に動くかもしれない。
祥一郎・・・・・・・・
お前はそっちの世界で力をつけて、おっちゃんを穏やかに速やかにそっちへ行けるように計らってほしいよ。
もうまたあの、氷のような心で生きるのは嫌だ・・・・・・・・・・・。
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