石原裕次郎は、昭和53年(1978)に舌下潰瘍の
手術をして以降、次々と疾患が発見され、
入退院を繰り返しました。
昭和61年(1986)5月、高熱のため慶應義塾大学
病院に入院、
7月に退院してから、翌年4月までハワイで
療養しました。
この療養中に制作されたのが、『北の旅人』
『想い出はアカシア』『わが人生に悔いなし』
『俺の人生』の4曲。
作詞・作曲は、前の2曲が山口洋子と弦哲也、
あとの2曲がなかにし礼と加藤登紀子。
制作されたといっても、すでに日本と行き来する
体力がなかったため、オアフ島のドルフィン・スタジオ
で録音されたそうです。
昭和62年(1987)4月、体調不良のため急遽帰国、
慶應義塾大学病院へ入院したものの、恢復
することなく、同年7月17日に死去しました。
享年52歳。
けっきょく、上記の4曲が彼の最後の作品となって
しまいました。
上の歌は、恋人と思っていた女性が自分の友人
と結婚してしまったというキツい設定。
どこかで歯車がずれちゃったと言う、
ありがちなケースです。
彼女が自分の友人と結婚したことは知って
いたけれど、めぐり逢って彼女の指の
結婚指輪を見たとたん、喪失感が増します。
せめてもの救いは、彼女が幸福そうだったこと。
一度は恋人であった女性が不幸になっていた
のでは、辛すぎます。
日本の童謡や歌謡曲に出てくるアカシアは、
ほとんどがニセアカシアです。
ニセアカシアは、北米原産のマメ科ハリエンジュ属
の落葉高木で、明治のはじめに日本に入ってきました。
学名のRobinia pseudoacaciaのうちpseudoacaciaは、
そのままニセアカシアの意(Robiniaはハリエンジュ属
を示す)。
清純さを思わせる真っ白な花をつける木に、
「ニセ」がついていたのではイメージが損なわれる
ということからでしょうか、
いつごろからか、単にアカシアと呼ばれるように
なったようです。
「ニセ」がつかないアカシアは、マメ科ネムノキ亜科
アカシア属の総称で、オーストラリアやアフリカに
分布する広葉樹。
アカシア属のうち、黄色い花をつけるフサアカシアは、
一般にはミモザと呼ばれています。
本来のミモザは、オジギソウ(学名:Mimosa pudica)
のことだそうです。
浮気した夫をどう迎え、どう向き合うのか。
妻としての「正解」はない。
出来心で不倫するような人だったんだ
浮気がバレた時、夫は真摯に謝った。
妻も謝罪を受け入れ、もう一度2人でやり直そう
と決めた。
「それでも無理だったんです。
『もう頑張れないよ』と、夫に泣きながら訴えたのが
1年後でした」
坂本恭子さん(48歳・仮名)は、穏やかにそう言った。
離婚してから2年が経ち、今は大学生の娘と高校生
の息子の3人暮らし。
子どもたちは近くに住む父の元をたびたび
訪れているし、時には4人で外食することもある。
「今はいい関係を築けていますが、夫が家庭に
戻ってきた時は本当につらかった」
2人は学生時代からの友だちだった。
26歳の時、恭子さんが大失恋。慰めてくれた
彼に口説かれ、結婚へとなだれこんだ。
「彼とは本当にいい友だちだったから、
男女の仲になって関係が変わるのが怖かった。
だから結婚当初からよく話し合いました。
2人で働き、子育てもして。全面的に夫を
信頼していたんです」
ところが44歳の時、相手の女性からの
挑発的な電話で、夫が不倫していることを知った。
すぐに問いつめると、夫は涙を流して謝罪。
ほんの出来心だったと言い訳した。
「出来心で不倫するような人だったんだと
信頼が崩壊しました。
私たちが頑張って築いてきた関係を、
こんなふうに裏切る人だったということにショック
を受けて。
夫は誘惑されて軽い気持ちで浮気したら、
相手の女性の押しの強さにびっくりしたと
いうことらしいです。
『バレて別れることができてよかった』とも
言っていました。
そういう言い方も私としては納得できませんでしたね。
だからといって、相手に惚れていたんだと
言われても苦しいけれど」
相当なストレスがあったんじゃないですか
家庭を壊したくない、もう一度やり直したい
と夫は訴えた。
人間、誰しも過ちはある。それを許さないのは
人としてよくないと恭子さんも考えた。
夫と知り合ってもう30年近い。
その歴史は重かった。
「毎日のように話し合って、週末には一緒
に出かけて……。ぎこちなくても一生懸命、
会話をしなくちゃと心がけました。
2人とも必死だったんです。
私は積極的にセックスも仕掛けました。
本当は生理的な嫌悪感があったけど、
もう一度『いい夫婦』になるためには、
そのハードルを越えなければいけないと思って」
この一件で、恭子さんは夫の前で泣きはしたが、
夫を思いきり責めてはいない。
先に謝られてしまったため、怒りをぶつける
タイミングを逸してしまったのだろう。
「ウソも毎日続けたらいつかは本当になる。
そう信じていました。
2人で早起きして私は夫と子どものお弁当を作り、
夫は朝食を作る。それぞれ仕事に出かけ、
何時に帰れるか連絡を取り合う。
帰る時間が合えば外食しようと誘ったり」
1年ほど経ったある日、恭子さんは全身に
倦怠感を覚えて起き上がれなくなった。
夫は早く帰宅して看病してくれたが、
それさえも鬱陶しかったという。
「翌日這うようにして病院に行ったら、
即入院でした。
1週間も検査漬けになったけど原因がわからない。
ただ、免疫力が異常に落ちているし、内臓の
働きもよくないと。
『相当なストレスがあったんじゃないですか』
と医者に言われた時、
私、ブワーッと涙が出てきてしまって。
もう何もかもイヤだ、そう思いました」
見舞いにきた子どもたちに本音をぶちまけた。
娘は「お母さん、無理してるって思ってたよ」
と笑う。その顔を見てまた号泣したという。
「とうとう夫に本音を言いました。
私はもう無理だと。愛そう愛そうとしたけど、
愛せなかったよって。
夫は『わかった』と言い、すぐに家の近くの
ワンルームマンションに引っ越していきました」
1年で7キロも痩せてしまった恭子さんに、
夫としてかける言葉がなかったのだろう。
離婚届を書いた時、恭子さんは急に
体が軽くなった。
自分を縛りつけていた「いい夫婦でいなければ
いけない」というプレッシャーがなくなったからだ、
と自分で分析する。
「私、努力すれば必ずいいことがあると思って
いたんですよね。
逆に言えば、自分の思い通りにならないのは、
努力が足りないからだと信じていた。
でも、どんなに頑張ってもうまくいかないことがあると、
この歳になって初めてわかったんです
だから離婚当初は、夫に裏切られたことより、
自分の価値観が間違っていたというショックのほう
が大きかったのかもしれない」
ところが離婚後の恭子さんは、元夫や子どもたち、
さらには職場の仲間からも「変わった」と評判なの
だという。もちろん、いい方へだ。
「それまで自分の価値観に縛られすぎて
いたんでしょうね。穏やかになったとか、
話しやすくなったとかよく言われます。
私自身も人に弱みを見せるのが怖くなくなった」。
素の自分はどういう人間なのか、彼女は改めて
考えているという。 …
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