貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・THEライフ

2022年07月14日 | 流れ雲のブログ










   








「元看護師殺人事件」の結末

実は、日本ではコロナ禍がはじまって以降、
老老介護に関する殺人事件が増えていると
言われている。

「責任感が強い人ほど追いつめられる」という。

その家は二世帯住宅になっていた。1階には
70代の両親が暮らしており、2階には長男家族
が住んでいた。

家の持ち主は1階の両親だ。

77歳になる日出美(仮名、以下同)は元看護師。
社交的で近所付き合いも良かった。

夫の勉は、日出美より5歳下だった。
同じ病院で医療事務の仕事をしており、
どちらかといえば生真面目なタイプだ。

そんな夫婦が老老介護を余儀なくされたのは
定年後のことだった。

「死んで楽になりたい」

こうした日々の中で、日出美はうつ病を発症する。
介護をしようとすると、突然体が動かなくなる。
理由もなく涙があふれて止まらなくなる。
少し前の記憶が抜け落ちる……。

典型的なうつ病の症状だった。

医療知識があった日出美は、自分の身体の異常
に気づいていた。

だが、それを受け入れることは、夫を見捨てることになる。
なんとかがんばらなければ。

彼女は病院に通って薬を処方してもらいながら、
勉に対する24時間体制の介護をつづける。

だが、これは、日出美のうつ病をさらに悪化
させることになった。

気がついたら、希死念慮に囚われるように
なったのである。

「死んで楽になりたい」 夫の介護をしている
最中に、いくどもそんな思いが脳裏を過った。

ハッと我に返ってはその気持ちを振り払うのだが、
またいつの間にか死にたいという気持ちに囚われる。

希死念慮は日増しに大きくなっていった。

2014年の年末、日出美は今のままでは共倒れ
してしまうと考え、病院に相談して夫をレスパイト
入院させた。

レスパイト入院とは、要介護者を一時的に入院させ、
その間に介護者が休息をとることだ。

日出美は休みを取ることで、己の心身を
回復させようとしたのである。

「レスパイト入院」の期限が切れて

年が明けて間もなく、レスパイト入院の期限が切れ、
勉は自宅に帰ってきた。

日出美は体調が回復していなかったため、
周りからの勧めで勉に介護用おむつをさせ、
排尿にかかる手間を減らすことにした。

だが、夫がそれを受け入れなかった。

おむつをつけるのは屈辱であり、トイレで用を
足したいと言いだしたのだ。

日出美は夫の意志を尊重せざるをえなかった。
だが、それは同時に休みのない介護の幕開け
を意味していた。

少しでも手間取れば、罵声を浴びせられる。

ケアマネージャーの友田は、そんな日出美
を心配して言った。

「今のままだと負担が大きすぎるので、
介護施設のショートステイをつかってみては
どうですか」

月に数日でもショートステイが利用できれば、
それだけ日出美の負担は減る。

だが、うつ病になっていた日出美は、もはや
自分の状況を客観視し、適切な判断をくだす
ことができなかった。

その提案について曖昧な返事をしているうち
に事件が起きてしまうのである。

それはレスパイト入院先の病院から帰ってきた
4日後のことだった。

真夜中になっても、日出美は眠ることができなかった。

介護とうつ病の症状から不眠に陥っており、
頭にはずっと「死にたい」という気持ちが渦巻いて
いたのである。

それはどんどん大きくなっていき、
ついにはこういう考えに至る。

死ねば楽になる。でも、お父さんを1人で残す
ことはできないから、私が連れて行かなきゃ。

夫の叫び声

他の介護殺人にも当てはまることだが、介護者
がうつ病によって希死念慮を膨らませた場合、
時としてそれが心中への思いに変わることがある。

これまで介護をしてきた責任感から、
要介護者を残して苦しめるより、一緒に
楽にしてあげたいと考えるのだ。

日出美もまさにそうだった。

そんな時、勉が目を覚まして大きな声で言った。
「着替えさせてくれ!」

日出美は言う。 「お父さん、まだ夜ですよ。
着替えてどうするんですか」

「いいから着替えさせろ!」
排尿なのか、我がままなのか。何にせよ、
地獄のような1日がはじまろうとしているのは
事実だった。

このあたりから、日出美の記憶は曖昧になっていく。

そして気がつくと、包丁を握りしめ、勉に
馬乗りになって振り下ろしていたのである。

後の警察の調べによれば、勉の身体には30カ所
以上の刺傷があり、中には心臓を貫いていたもの
もあったらしい。

日出美はほとんど覚えていないが、
がむしゃらに刺しつづけたのだろう。

事態に気がついたのは、2階で眠っていた
長男だった。大きな悲鳴で目を覚まして階段を
下りていったところ、血だらけになって死んでいる
勉を見つけたのである。

日出美は放心状態だったそうだ。

要介護者が660万人に達する現在、
社会には様々な介護に関する資源ができている。

地域による差や、金銭的な問題はあるにせよ、
つながろうと思えばつながることはできる。

だが、介護者の中には、それをよしとせず、
自らの手で介護をつづけようとする人が一定数いる。
日出美がまさにそうだった。

看護師として定年まで働いた経験から、
必要以上の責任感を抱え、なんとか自分の力で
夫を回復させようと努力する。

それは必ずしも悪いことではないが、
時と場合によっては本人が想像しないほどの
負担を背負い込んでしまい、ついには精神を
病むといったことが起こる。

その時の悲劇的な結果として現れるのが、
「介護殺人」なのである。

本事件の裁判で、ケアマネージャーは
次のように語っていた。

「変な言い方ですが、事件が起きてしまったのは、
日出美さんが介護放棄をするような人では
なかったからです」

この言葉がすべてを物語っている。

そして懸念するのは、コロナ禍においてこういう
状況が以前より成り立ちやすくなっていることだ。

密室で行われる老老介護が増加し、病院や
介護施設に頼ることが難しくなり、経済的な
問題を抱える人も増えている。

友達や親族など、相談できる相手との
距離も広がっている。

介護者をこうした悪循環から解き放つには
何をするべきなのか。

コロナ禍の収束の見通しがつかない中で、
日本の超高齢化に拍車がかかっている今、
一人ひとりが我がこととして考えなければならない
問題だ。 …














突然切り出された「別れ」  

今から3年半ほど前、咲紀子さんから突然、
別れ話を持ちかけられた。

理由を聞いたが、彼女は何も言おうとしなかった。
「理由を聞くまでは絶対に別れない。

僕はそう言って、3日にあげず彼女の元に通いました。
合鍵も持っていましたが、勝手に開けて入ったことは
ありません。

だけどある日、彼女から応答がないので
部屋に入ったんです。彼女、倒れていました」  

周りに吐いたあとがあった。彼はあわてて救急車
を呼び病院に運んだ。

そのときはすぐに帰宅できたが、何か様子が
おかしい。本当のことを話してほしいと彼は懇願した。

「すると彼女は病気で余命宣告されたという。
膵臓がんで転移もあり、手術はできない。
化学療法はできるが拒絶した、と。

1年はもたないけど、あなたに迷惑をかけたく
ないから、今のうちに別れておいたほうがいいって。

さすがの彼女も、ほろりと一粒、涙をこぼしました。

でも号泣はしなかった。代わりに僕が号泣しました」  
そう言いながら憲司さんの目が、みるみる
潤んでいった。  

当時、それを聞いた憲司さんは、「オレが
なんとかする」と断言。

学生時代の友人に大学病院の医師がいたため
相談し、詳しく検査してもらった。

だが結果はすでに彼女から聞いていたもの
と同じだった。

「彼には僕と彼女の関係も話しました。
彼女が天涯孤独の状況にあることも。

彼は彼女が通いやすい個人病院を紹介して
くれたんです。

抗がん剤治療で希望をもてる状況になる
可能性があることも説得してくれた。

彼女は真剣に聞いていました」  
それでも彼女の意志は変わらなかった。

最後まで普通の生活をしたい。

最後は痛みを緩和してもらって静かに人生
を終えたいと言い張った。

「生きる気力をもってほしい、僕のために。
離婚するよ、一緒になろう。

そう言ったら、『私が結婚したいと思ってるって
決めつけないで』とピシャリと言われた。

病気と闘うつもりはない、そういう生き方もある
と認められないのかとも言われて。悩みました」

家族を連れてコンサートへ  

咲紀子さんの生き方は消極的自殺ではないのか。
そんなふうにも思った。だが、それからも咲紀子さん
に接するうち、彼の考えは少しずつ変わっていく。

「彼女、サックスを吹けるのも今のうちだと思ったん
でしょうね。ジャズコンサートを開こうと音楽学校で
人を集め始めたんです。

僕がドラム、彼女がサックス、あとはピアノとベース
の人が加わってコンボを編成、

みんなで集まって練習するのは時間が合わず
むずかしいので、まずは個人練習に明け暮れ、
そこから集まって練習しました。

編成してから2ヶ月後には学校内のスタジオ
でコンサートを開くことができた。

彼女、よほど練習したんでしょう、すごくうまかった。
僕がミスって怒られましたけど」  

バンドを組んでコンサートをすることは妻にも
話していた。もちろん、彼女との関係や彼女の
病気のことはひた隠しにしていたが。

妻は息子をともなってコンサートにも駆け
つけてくれた。

「帰宅してから、サックスを吹いていた女性、
かっこよかったわねと言われて、一瞬、返事に
つまりました。

でも『彼女は学校のマドンナだから』と苦し紛れ
に答えたんです。

のちのち、この返事が妻の心を刺激したとは、
そのときは思いませんでしたが」  コンサートが
終わると咲紀子さんは徐々に弱っていった。

心配してくれていた友人医師も、主治医となった
個人病院の医師も、やはり抗がん剤を進めてくる。
それでも彼女は拒否しつづけた。

「こんなにおかしなあなたを見るのは初めて」  

半年が経過したころ、彼女は転んで腕を骨折した。
足がうまく前に出ないのよとつぶやくように
言ったという。

「あとは緩和ケアしかない。

彼女にどうすると聞いたら、最後は緩和ケアを
してもらいたいけど、今はまだ大丈夫、入院は
しないと突っ張るんです。

でもそれがあるから生きる意欲につながるんだ
とも思った。

個人病院の医師と相談し、彼女の意志を
尊重することにしました。

その医師が最後まで責任もちますと言って
くれたのがうれしかった」  

その1ヶ月後、彼女は立っていられなくなって入院。
余命1ヶ月と宣告された。

さすがにこれは咲紀子さんには言えなかった。

「会社の共同代表にすべて打ち明けました。
そのときは社員は10人になっていたし、電話や
メールでの対応はするから、1ヶ月だけ休ませて
ほしいと。

彼は一言、わかったと言いました。

ありがたかった」  いつものように会社に行く
ふりをして咲紀子さんの病室に向かった。

体調がよさそうな日はドライブに出かけたこともある。
車いすではあったが、彼女は海を見て笑顔になった。

「会社に行くふりをして、いつもと同じ日常を
過ごしているように偽っても、妻にはわかって
いたんでしょうね。

『結婚以来、こんなにおかしなあなたを見る
のは初めて。何が起こっているのか教えて
ほしい』と言われました。

僕も心が弱くなっていたんでしょう、
すべて話してしまいました。

妻は『やっぱりあの人だったのね』と。
コンサートに来たときから怪しいと思って
いたそうです。

そして黙りこくったあげく、一言、
『わかった』と言いました。

何がわかったのかはわからない。だけど
今はこのままにしておこうと判断してくれた
みたいです。

そのときの僕には周りのことを考えている
余裕はなかった」

「彼女に渡して」という妻の手紙  

2週間たったとき、咲紀子さんは「もう来なくて
いいよ」と言った。

仕事を休んではいけないし、あなたは
家庭に早く戻るべきだと。

私に関わっていたらあとから大変なことに
なるでしょうと心配そうに言った。

「痩せた彼女の肩をそうっと抱きました。

咲紀子ちゃんはそんなことを気にしなくていい、と。
そして『死んでいくから?』と反論してきたんです。

『死んでいく人間はあとのことを気にしなくて
いいということ? バカにしないで』って。

確かに僕は心のどこかで、彼女をかわいそうだ
と思っていた。でもそれは彼女を傷つけること
だった。このことをとても後悔しています」  

翌日、妻から「彼女に渡して」と手紙を託された。

何が書いてあるのかわからない。彼女を
もう傷つけたくない。だが妻の気持ちも無に
したくなかった。

こっそり封を開けることもできず、彼は手紙を
咲紀子さんに渡した。

「咲紀子ちゃんはその場で、開けてと
僕に言いました。

開けて便せんを渡すと、彼女はいきなり
ふふっと笑ったんです。

僕が覗いてみると、そこには『元気になって。
ケンカはそれからよ 佳代』とだけ書いてあった。

咲紀子ちゃんは泣いていました。
素敵な妻をもってよかったねって」  

その1週間後、咲紀子さんは静かに逝った。

お通夜もお葬式もなく、遺体は火葬場に直行、
憲司さんはひとりで骨を拾った。
妻は行くのを控えると言った。

「遺骨を持って帰って、自宅の自分の部屋に
置きました。

妻が『さっき届いたのよ』と封書をもってきた。
咲紀子ちゃんからでした。

乱れた文字で『ありがとうございました。
ごめんなさい』と書かれていた。

妻は静かに『しばらく別れて暮らしましょう』と。
そうだねと言うしかありませんでした」  

コロナ禍直前のできことだった。

憲司さんは自宅近くに小さなアパートを借り、
そこで暮らすようになった。

あれから2年数ヶ月、彼はいまもそこで
生活している。 「ときどき自宅に戻ります。

高校生になった息子が妻がいないときに
『どうして別居してるの?』と聞いてきたこと
があるんです。

『おかあさんとの意見の不一致かなあ』と
言ったら、『ま、いろいろあるよね。

お互いに冷静になって、いい方向を見つけて
ほしいけど』と受け止めてくれた。

大人だなあと驚きました。

そりゃそうだよ、もうじき成人だよと言われて。
そうか、18歳で成人だもんなあ。

こいつの人生はどうなるんだろう、こんなオヤジ
をもって情けないと思う日が来るかもしれない
といろいろ考えました」  

咲紀子さんの遺骨は今も憲司さんのアパート
にある。お墓を建ててやりたいと思いながら、
なかなか実現できないでいる

。彼女の親戚に連絡をとってみたが、
「彼女の親ももういません。遺骨は適当に
処分してください」と言われた。

どんな過去があったのかわからないが、
あまりにも冷たいことに慄然としたという。

「今になって思うんです。彼女は幸せを感じる
瞬間があったのだろうか、と。

僕と関わらないほうがよかったのではないか、
もっと彼女を幸せにしてくれる人がいたの
ではないか。

無駄な5年間を過ごさせてしまった
のかもしれない。何をどう考えても、
あのときこうしていれば、ああしていれば
と後悔ばかりしています」  

何度も言葉を詰まらせながら、ときには
涙を飲み込むようにしながら、彼は誠実
に話し続けた。  

自分の将来はまだ見えてこない。
そして、彼の行く道もまだ長い …









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