貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・歌物語

2022年07月20日 | 流れ雲のブログ










   







歌詞に「新宿駅裏」とあることから、
ここで居酒屋を営んでいた女性が
店仕舞いすることになり、
その最後の一夜を歌った作品です。

しょんべん横丁は、青梅街道から新宿駅北端に
至る線路際の商店街。

30×100メートルほどの狭い空間に、小さい店が
びっしり建ち並んでいます。

洋服店やチケット店もありますが、大半が
焼鳥・もつ焼き店、居酒屋、ラーメン店、
一般食堂などです。  

新宿駅の西側は、今では超高層のビジネスビル
やシティホテル、デパート、大型電器店が建ち並び、
先端的なビル街になっていますが、

その片隅にあって、昭和20年代~30年代の
雰囲気を色濃く留めているのが、しょんべん横丁です。  

商店会では「思い出横丁」と呼び、その名前の
看板も掲げていますが、時の流れに取り残された
かのようなたたずまいを愛する古手の常連たちは、
愛着をもってしょんべん横丁と呼んでいます。  

思い出横丁の公式ホームページによると、
始まりは敗戦直後の"焼け跡闇市"。昭和21年(1946)
ごろは、駅の西側に青梅街道から甲州街道まで
食べ物や日用雑貨を売るよしず張りの露店が
びっしり並んでいたそうです。  

それが火事で焼失。

その後は戸板で仕切った露店商のマーケットに
変わりますが、やがて駅前再開発の波に追われて、
大半の店が消え、現在の思い出横丁
(しょんべん横丁)だけが残ったという次第です。  

戸板1枚で仕切られたマーケット時代の名残で、
現在も壁1枚で隣と連なっている店の多いのが
特徴です。  

この飲食店街がしょんべん横丁と呼ばれるよう
になったいきさつですが、露店時代はトイレが
なかったため、

尿意を催した酔客が露店の裏で放尿した
のが始まりとされています。  

店を冷やかすことを隠語で「しょんべん」
というそうですが、しょんべん横丁は、
露店時代に冷やかし客が多かったことからきた
とする説もあります。しかし、これは疑問です。  

冷やかしとは、品定めや質問だけして買わない
ことですが、これは通常、物品を商う店にだけ
通用する言葉です(遊里の遊女についても)。

しょんべん横丁を愛する人が、今なお大勢
いるのはなぜなのか。

昔、関西大学の社会学の教授にインタビュー
したとき、こんな話を聞きました。

彼は、開高健や藤本義一などと同じく、
いわゆる関西文化人の1人でしたが、

整然と設けられ、清潔に整えられた市街や
屋内では、最初はその美しさに感嘆しても、
やがて息苦しさを感じるようになることが多い。

それが続くと、不安感が増大し、なかには
神経症的症状を呈する人もいる。

人間の本性がそもそも不条理で非論理的
なものだからだ。  

ブラジルの新首都ブラジリアは、壮大な
マスタープランに基づいて建設が進められ
(1960年に建設開始)、

その計画的な美しさで訪れる者を感心させて
いるが、近年自殺者が増えているという。  

整いすぎた街や屋内に息苦しさを感じた
人はどこへ行くか。

内臓のように入り組み、ごみごみして
薄暗いような場所に行く。

そこでは、肩肘張らず、本音が吐けるからだ。

大阪にはそんな場所がいくつもあり、
それが大阪のいいところだ。

ブラジリアも、歴史を重ねるうちに、
そのような逃げ込み場所ができるだろう。  

そういえば、大阪にも十三(じゅうそう)に
しょんべん横丁があります。

この呼び名の由来も、東京のそれと同じでしょう。  

新宿駅周辺では、西口のしょんべん横丁のほか、
駅東側の歌舞伎町1丁目に、有名な
新宿ゴールデン街があります。

こちらもごみごみした街で、得体の知れない
人物から文化人、サラリーマンまで、
多種多様な人びとのたまり場になっています。












見知らぬ女が玄関に立って、写真を手にしていた。

そして、私にこう言った。
「この人は、ここにいますか?」と。
その写真に写っていたのは、私の夫だったーー。

つき合うつもりなどなかったのに

夫とは、短大時代、バイト先で知り合った。
これといって第一印象が良かったわけでも、
好みのタイプというわけでもなかったが、

休憩時間が重なることが多かったため、
自然に会話をするようになった。

私が初めて彼を気に留めたのは、
食事の仕方がなんとも可愛かったから。

食べ物を口に運ぶしぐさが優雅で
絵になる感じがした。

その日も休憩をともにしていたら、
唐突に彼から食事に誘われた。

妻子がいることは知っていた。
不倫経験がある女性は、同じことを言うだろう。
ほんの軽い気持ちだった、と。私もそうだ。

つき合うつもりなどなかったのに……。

でも食事をする間柄になり、いつしか彼の
熱意に心が動き出していた。

結婚しているのにどういうつもりだろう。
そんなふうに疑問を抱きながら、未知の
世界への好奇心が生まれてきていた。

とはいえ、このまま一線を越えるわけにはいかない。
そんな冷静さだけは持ち合わせていて、
彼に私は言った。「遊びでつき合うつもりはありません」と。

彼からすればなんと重い言葉だっただろう。
しかし、なぜか彼は「遊びじゃない」と真剣に答え、
私はそれを信じてしまった。

周囲からは忠告されたけれど 騙される女の典型的
なパターンだと冷笑されてもしかたない。けれど彼は、
私をいわゆる不倫相手のようには扱わなかった。

人目を気にせず街を歩いたし、地元のいきつけ
の店へも何度も行った。彼の友達にも会い、
自然と2人の仲が知られていった。

周りからは「傷つくのは女のほうだから」
「最終的に男は家庭を選ぶよ」と忠告を受けた。

けれど、周囲の予想を裏切り彼は妻子と別居。
離婚の話し合いが持たれるまでになった。

ただ話し合いはこじれ、なかなかスムーズ
にいかない。

そうこうしながらつき合って1年が過ぎた頃、
離婚が成立しないまま、私は妊娠してしまった。

焦りはピークに達し、「どうするの?」とばかり
言い続けていたような気がする。

彼は、給料の半分近くを養育費と慰謝料に
充てるという条件で離婚を成立させた。

私には申し訳ないという思いより、勝利者の
ような達成感があった。

それからは、猛反対の私の両親を説得し、
半ば強引に結婚式までこぎつけた。

だが、あんなに望んだ結婚だったのに、
現実は悲惨だった。

ムリして支払う毎月の養育費が家計を圧迫し、
生活は火の車。

私は常にイライラし、仕事から帰ってくる夫を
つかまえて八つ当たり。次第に理由もなしに
夫をなじるようになる。

「どうしても一緒になりたいって言うから結婚して
あげたのに、何でこんな思いしなきゃいけないの」。

責任の半分は自分にあるのに、
夫を責めてばかりの毎日だった。

それでも夫に愛されていると思っていた
自分は、今から思えばおめでたい人間だ。

家を空けることが多くなった夫

夫はある日「小遣い稼ぎがしたいから、
友達のトラックに乗って荷物を運ぶバイト
をする」と言い出した。

私は少しでも家計がラクになるならと承諾。

しかし、徹夜で麻雀だとか、遠出の運送だとか
理由をつけては家を空けることが多くなった。

朝帰ってきても、すぐにパチンコに行くと
言って出かけてしまう。

女がいると疑う余地はいくらでもあったのに
……。私はつくづく鈍い女だったのだろう。

5年ほどそういう状態が続いたが、
あるとき夫の外泊・外出がぴたりと止まる。

土曜の朝は遅くまで寝ていて、パジャマ姿
のまま1日を過ごす。

「どうしたの?」と聞けば、「仕事がなくなった」
と答える。

おかしい。 …

その日は、初春の陽が射し込む穏やかな
午後だった。

玄関チャイムが鳴りドアを開けると、
見知らぬ女が立っていた。

手に持っていた写真には、満面の
笑みを浮かべた夫が写っている。

状況が飲み込めない。女の引きつったような
顔だけが目に飛び込んできた。

私が「あなたは?」と尋ねると、
「Aさんとつき合っている者です」と小声で、
しかしハッキリと夫の名前を言った。

わからないことだらけだったが、間違いなく
その女は、夫の女なのだ。

そのときの夫の間抜けな顔は忘れられない。
それはそうだろう。

「とにかく来て」の一言で呼び出された玄関に、
私と彼女が鬼のような顔で待っていたのだから。

私の元へ戻ってきた、はずだった……

夫は妻子がいることを隠し、
彼女とつき合っていた。

彼女から両親に会ってほしいと言われ、
ごまかしきれないと思い、彼女の前から
姿を消したのだ。

夫は終わらせたつもりでも、何がなんだか
理解できない彼女は、夫の免許証に書かれ
ていた住所の記憶を頼りに、わが家まで
辿りついた。

まさか、愛する男に妻子がいたなんて思わずに。
ワーワー泣き喚く彼女。おろおろする夫。

そこになぜか冷静な私がいた。

「時間をかけて話し合いましょう」。
そう言ったのを覚えている。

それから何度も話し合いをし、夫は私の前で
彼女に別れを告げた。夫は私の元へ戻ってきた、

はずだった……。

しかし、ここからが本当の修羅場の始まり。
諦めきれない彼女は仕事帰りの夫を待ち伏せし、
私は帰ってこない夫を探しにいく。

そして2人が会っている現場を見つけて
言い争いに。

帰ろうとする夫、
引き留める彼女。
それを引き裂く私。

似たようなことがたびたび起こり、
もうクタクタだった。

結局、私たち夫婦は離婚を選んだ。

そして、さほど日をおかず、
夫は彼女と再々婚した。

笑ってしまう結果だ。

両親を泣かせ、最初の奥さんを苦しませ、
手に入れた結婚生活なのに、

私のわがままと自覚のなさから夫を
ほかの女のもとへ走らせてしまった。

挙げ句、私は夫を失い、子どもから
父親を取り上げたのだ。

無理やり奪ったから、奪われた。
悪いことをしたらちゃんと罰が下る。

あれから20年、私は今も一人でいる。
神様からお許しをもらえる日は、
まだまだ先になるのだろうか? 

ただこの教訓だけは忘れずに生きていきたい。









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