(写真は、「義民・小松三郎左衛門」が若くして処刑された
場所に置かれた「如意輪観音」。)
早朝に、甲府駅前のホテルクラウンヒルズ甲府を出て、甲府駅
から中央本線に乗ります。
車窓からは富士山が良く見えます。
前回のゴールの青柳駅で下車します。
延々と続く石段を上って行きます。
振り返ってみると目眩がする急斜面です。
急斜面の石段を上り切ると、旧甲州街道沿いのセイコー
エプソンの社員寮の前に戻って来ました。
エプソン社員寮を過ぎると下り坂になります。
旧甲州街道は、国道20号に突き当たるので、ここを左折
します。
この辺りが「金沢宿」の東口です。
金沢宿は、本陣1、問屋2、旅籠17軒でした。
金沢宿は、高遠や飯田に通じる追分を控え、交通や物資流通の
要衝として栄えました。
当初、甲州街道を通行する参勤交代の大名は高島藩、飯田藩、
高遠藩の3藩に限定されていました。
しかし、江戸後期になると、幕府の許可を得た大名が、遠回り
になる中山道を利用せず、近道の甲州街道を通行するように
なったので、金沢宿は大いに賑わったそうです。
宿場町を少し進むと「泉長寺」があります。
泉長寺の参道を進むと、正面の山門の右手に次ページの
写真の「おてつき石」があります。
説明版によると、参勤交代の大名が通行する際には、宿の役人
が、この石に手を付いて口上を述べたそうです。
上の写真は、「旅籠屋・丸屋」です。
上の写真は、「旅籠屋・松坂屋」です。
写真の建物は、馬方と馬が一緒に宿泊できた「馬方宿」です。
馬方宿の前には、写真の「馬つなぎ石」があります。
以下は、金沢宿の町並みです。
(下に看板を吊るすための屋根)
金沢宿の端の辺りまで来ると、上の写真の旧甲州街道の説明が
ありました。
その説明版の赤い矢印に従って、右手の旧甲州街道の小路に
入って行きます。
旧道に入り、直ぐ先のY字路を左折します。
このY字路は、「高遠道追分」で、この追分には、上の写真の
1758年建立の道標「左 たかとう道」があります。
Y字路を左折すると、直ぐ左手に、写真の「如意輪観音」を
安置した祠があります。
この祠の脇の石碑の説明文によると、この場所で、江戸時代の
義民「小松三郎左衛門」が、大勢の村民が涙で見守る中で、
磔(はりつけ)にされたそうです!
三郎左衛門は、この金沢宿の問屋の主で、処刑当時34歳の
若さでした。
山の入会権をめぐる争いで、金沢村の代表として、藩主に
無断で、直訴しようと江戸へ向かったことが、藩主の怒りに
ふれ処刑された、とあります。
1749年、磔の刑に処せられた小松三郎左衛門の霊を弔う
地蔵尊が、ここ刑場跡に安置されました。
この地蔵尊は、「みょうり様」と呼ばれ、今でも地元民に
敬愛され、献花や線香が絶えることがないそうです。
旧道は、この如意輪観音の先で、宮川に突き当たります。
突き当たりを左折して宮川沿いに進むと、「道祖神、地蔵、
魚供養塔」等の石仏石塔群があります。
その中の上の写真の「水神明王」は、度々氾濫して大きな被害
をもたらしてきたこの宮川を鎮めるためのものです。
金沢橋で、宮川を渡り、右折して、その先を左折します。
次いで、突き当たりのY字路を左折します。
これが「金沢宿の西枡形」です。
この西枡形を抜けて金沢宿をあとにして、次の上諏訪宿へ
向かいます。