その①の続き
全インド・ムスリム連盟指導者に就いたジンナーだが、連盟は一枚岩には程遠い組織だった。連盟内では親英派と親国民会議派という派閥争いがあり、権力基盤も盤石には程遠い有様。国民会議派にも派閥争いはあったが、表面は民主体制でも実際はガンディーの独裁状態であり、ネルーが初代首相になったのも、ガンディーの絶大な支持が大だった。ジンナーにはこのような先達はおらず、有力者ムスリムから「担がれた人」の観は否めない。
1947年8月15日、ついにムスリムによる国民国家パキスタンを建国したジンナーは、初代総督に就任する。首相ではなく総督なのは、独立時のパキスタンは英国国王を元首とする英連邦王国だったからだ。共和制に移行、英連邦王国でなくなったのは1956年である。ちなみにインドが共和制に移行したのは1950年。
悲願の独立を果たしても、インドと同じく新生国家は難問山積、総督の激務と責務はジンナーの心身を消耗させていく。激務という点ではネルーも変わりないが、ジンナーより13歳も年下なのだ。
実はジンナーは1940年代を通し、結核を患っていたが、これを知っていたのはその姉妹と側近だけだった。1948年になるとジンナーの健康状態は悪化の一途をたどり、保養地で数か月間、休養をとるものの病状は改善せず、1948年9月11日、結核と肺がんの合併症により死去する。享年71歳。建国後、僅か1年でこの世を去ったのだ。
死後ジンナーはパキスタンで偶像化され、「カーイデ・アーザム(最も偉大な指導者の意)」「バーバーイェ・コウム(建国の父の意)」 と謳われるようになる。建国の父だったのは事実だが、“最も偉大な指導者”というのは過大評価にも感じる。
歴史にイフは禁句だが、もしジンナーが健康体で長生きしたとしても、パキスタンが安泰したかは疑問だ。ジンナーが目指したのはイスラム法に則ったイスラム国家ではなく、議会制の世俗国家だったにせよ、政治の歩みはインドとはかなり異なっている。
独立後、全インド・ムスリム連盟は一党独裁体制を敷き、反対する者を次々と粛清していく。インド国民会議派も社会混乱を抑えるため強権を振るうことはしばしばだったが、粛清の話は聞いたことがない。ジンナーの後継者で、初代首相リヤーカト・アリー・ハーンは1951年に暗殺された。ジンナーは十二イマーム派に属しており、パキスタンでも少数派シーア派なのだ。この辺りもかなり不利に働いた可能性がある。21世紀になってもパキスタンでは、シーア派に対するテロが度々起きている。
ジンナーは私生活面でも恵まれなかった。最初の妻には結婚後僅か2年で先立たれる。彼が42歳を迎える1918年に再婚するが、相手は24歳年下でボンベイ(現ムンバイ)のゾロアスター教徒(パールシー)名家出身の女性ラタンバーイー。これにはジンナー側のムスリム・コミュニティーはもちろん、新婦一族の方からも激しく反発される。
ムスリムの迫害から逃れてインドに亡命してきた歴史もあり、パールシーには根強い反イスラム感情があるのだ。ラタンバーイーはイスラムに改宗、マリヤム・ジンナーと改名するが、その結果、自分の親族およびパールシー・コミュニティーから絶縁されてしまう。
周囲の猛反対を押し切って結婚したにも関わらず、ジンナーの政治活動が多忙を極めたため夫婦関係は冷え込み、ついに1927年には破局する。その2年後、別れた妻が重病を患い亡くなり、ジンナーは悲嘆する。妻との間には女児ディーナーを儲けていたが、後に娘はパールシー家系出身でクリスチャンのビジネスマンと結婚、父との関係は疎遠になった。
ネルーの一人娘インディラも父の猛反対を押し切りパールシーと結婚しているが、ガンディーの仲立ちもあり、こちらは疎遠にはならなかった。ジンナーに限らず、独立運動家には家庭が破綻することが少なくなかったという。ネルーの家庭は無事だったが著書『インドの発見』の中で、「私の周囲には結婚の残骸が漂っていた…」と述べている。
独立運動に没頭、家庭を顧みない夫から独立する妻がいたことは案外知られていないかもしれない。独立運動家、というと偉人のイメージが付きまとうが、私生活面でも大きな代償を払っていたのだった。
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ネルーの妻はあまり体が丈夫ではなく、比較的若くして病死していますが、もし健康体なら家庭は破綻していたかも。妻の死後、周囲から勧められたにも関わらず、再婚しませんでした。