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ジンナー/パキスタン建国の父 その①

2019-05-07 21:40:43 | 歴史諸随想

 インド独立の父ガンディーは日本の小学生でも知っているが、その隣国パキスタンの建国の父の名となると、日本の大人でも殆ど知らない。インド自体が日本ではカレーと仏教以外には馴染みの薄い国だし、ましてその隣国となると関心自体がないのだ。
 たまに新聞の国際面で、パキスタンはベタ記事扱いで取り上げられることはあっても、テロ関連のニュースばかり。ますます厭わしく思う読者が多いだろう。ジンナーはパキスタンでは「建国の父」「最も偉大な指導者」として知られるが、インド・パキスタン分離独立を強行した人物として名を遺した。

 1940年、殊にジンナーがラホールで唱えた「二民族論」は、印パ分離独立を決定付けた。ジンナーは全インド・ムスリム連盟指導者でもあり、その演説の一部がwikiに載っている。
広く認知されているように、ムスリムは少数民族ではない。……国民という言葉のいかなる定義に照らしても、ムスリムは一国民であり、その故国、その国土、その国家をもたなければならない。われわれは、自由で独立した国民として、隣国の人々とともに平和に、協調しつつ生活することを願う。
 我々は、我々の国民が、最善と思われる方法により、理想にしたがい、資質を生かし、精神、文化、経済、社会、政治を十二分に発展させることを願う

 つまり、「インド亜大陸のヒンドゥーとムスリムは互いに異なった民族である」(二民族論)と宣言、ムスリム人口が多数を占める地域がヒンドゥー人口多数地域とは別に独立することを目指す決議を採択させたのだ。
 ガンディーはこうした分離独立を目指す主張に強く反対したが、ヒンドゥーが多数派を占めるインド国民会議派は宗教による分離に慎重な姿勢を見せても、結局は認めるに至った。国民会議派指導者で、初代インド首相となるネルー自身が分離独立を已む無しとする。ちなみにジンナーもかつては国民会議派に所属していたが、1920年に脱会している。

 先の「二民族論」から、ジンナーを教条主義的ムスリムと早合点する人もいるかもしれないが、極めて世俗的で常に英国仕立ての高級スーツを着る洒落者でもあった。彼の主張からもムスリムによる国民国家建国を目指していたのは明らか。第三世界での独立運動家たちの殆どは、西欧式の国民国家を理想的モデルとしており、ジンナーも例外ではなかった。

 ジンナーの言うとおり、ヒンドゥーとムスリムは互いに異なった民族なのは否定できない。そもそも多神教と一神教では相容れず、英国支配以前から両者は長く対立していた歴史がある。英国の分割統治で対立が煽られた事情はあったにせよ、それがなかったとしても根深い敵愾心は消えなかったはず。
 パキスタン領であるインド北西部は、元からヒンドゥーよりもペルシア(イラン)文明圏に属していて、インド側からは荒々しい辺境と見なされていた。ジンナーはインドムスリムの中でも少数派のシーア派で、しかも後にイラン国教となる十二イマーム派に改宗している。その理由は不明だが、ムガル帝国時代からインドのムスリムはペルシアへの憧憬が強かった。

 ガンディーは分離独立に邁進するムスリム指導者について、「ムスリムはインドを共通の家と思っていない」と嘆いたという。しかし、この言葉にこそ両者の決定的な違いが表れている。ヒンドゥーと異教徒が併存する社会観を持つヒンドゥーならば「共通の家」は受け入れられるが、常にムスリムが住む「平和の家」、異教徒居住地域を「戦争の家」と二分するイスラムの世界観では「共通の家」は成立しない。
 誤った信仰を持つ「戦争の家」を、武力行使しても「平和の家」に導くのがムスリムの聖なる使命であり、これほどまでにイデオロギーが異なれば共存自体が極めて難しい。

 印パ分離独立で国境線を決めたのは英国だが、これが印パ双方だけでなく世界各国から非難されることになる。しかし、印パ同士では国境が決められず、結局宗主国に下駄を預けたのが実態なのだ。
 分離独立をインドはムスリムの頑迷さと英国の分割統治に求め、パキスタンはヒンドゥーの非寛容と英国の分割統治に、英国は印パ双方の狂信性と責任転嫁し合った。この分離独立は犠牲者百万人とされる大惨事を伴うことになる。
その②に続く

◆関連記事:「ヒンドゥー至上主義
グルムク・スィングの遺言
トルコとインド人ムスリム

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (鳳山)
2019-05-07 23:42:30
恥ずかしながらジンナーという人を初めて知りました。勉強になります。
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鳳山さんへ (mugi)
2019-05-08 23:14:16
 ジンナーを知らずとも全く恥ではありません。日本でジンナーを知っているのは一部のオタクです(笑)。
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歴史にIFはないと歴史に学ぶの意味 (motton)
2019-05-09 09:55:12
>この分離独立は犠牲者百万人とされる大惨事を伴うことになる。

しかし、この時点で分離独立をしなかった場合はより酷い大惨事になった挙句に分離してさらに犠牲者と生んだと思います。

歴史の評価が難しいのは、選択されなかったルートの利得(利益-損害)が確実に評価できないことです。
ある行動(例えば分離独立)をする以前における損得計算の基準は、「行動した場合の利得」と「行動しなかった場合の利得」の相対評価であったはずです。前者の利得が後者を上回るなら「行動する」というルートを選択することが「正しい」。

しかし後世の多くの人々は、選択されたルートの結果のみを絶対評価してしまいがちです。選択されなかったルートの結果がいかに酷いものであっても(それは回避されたので)評価が困難だから。歴史にIFはないのですから。

聡明な人々であれば、歴史に学ぶことで類似した史実から選択されなかったルートの結果を推定して評価しようとするでしょう。
しかし、選択されたルートの百万もの犠牲者を前にした時、その評価は無力でしょう。
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Re:歴史にIFはないと歴史に学ぶの意味 (mugi)
2019-05-09 22:53:24
>motton さん、

 後世から後知恵で印パ分離独立を非難するのは容易です。ただ、この時点で分離独立をしなかった場合はより酷い大惨事になり、さらに犠牲者が出るという意見に、私も同意します。

 印パ双方の指導者は犠牲者を想定していたはずだし、それでも分離独立を決行したのです。ジンナーは独立以前、「もしヒンドゥー多数派のインドと一体となった形で独立した場合、そのような国家においてムスリムは社会の周縁においやられ、最終的にはヒンドゥーとムスリムの間での内戦に発展するだろう」と宣言しています。

 彼の危惧は的中しました。インド首脳部もムスリムを切り捨てる意図があったのは明らかだし、反対者はガンディーくらいでした。分離独立が成されない場合、内戦は長引いたと思います。
 百万もの犠牲者数には絶句する人が殆どだし、これを論って多神教も非寛容だと非難するクリスチャンもいました。しかし、東パキスタン独立時の犠牲者はその3倍以上に上っています。
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