『逆説の世界史3 ギリシア神話と多神教文明の衝突』(井沢元彦著、小学館)を先日読了した。井沢氏といえば『逆説の日本史』シリーズで有名だが、ついに世界史も手掛けるようになったのか。行きつけの図書館に本書が置いてあったため試しに手に取ってみたら、古代ギリシアの前に古代インドやインドの宗教を扱っていたので借りてきた。
特に私が最も関心のあったのが、第2章「ブッダの生涯と仏教の変容」中の第3話「仏教はなぜ発祥の地インドでは衰退したのか」。このテーマは多くの研究者によって論じられているが、井沢流の解釈が知りたくて読んだ。
“逆説の世界史”と銘打っているにも関らず、序章は「多神教社会に生きる日本人」なのだ。日本人読者向けに書かれているためだろうが、副題が「無宗教ではなく「日本教」を信じる民族」だった。「日本教」という用語は著者自身も書いているように山本七平の造語の借用だが、副題こそまさに「多神教社会に生きる日本人」を的確に表現している。
日本人はよく自らを“無宗教”と言いたがるが、実際は違う。ネットでも耶蘇はよく“無宗教”の日本人を嘲っており、拙ブログにも「世界に稀なる無宗教」と挑発してきた耶蘇ニートを兼ねた特亜ネトウヨが、HNを様々変えて湧いて出たことがある。
しかし、本当に「無宗教」であるならば、神社や寺院には絶対行かず、それら宗教施設さえないだろう。文部科学省の宗教統計調査(平成28年12月31日現在)の神社、寺院、教会のデータを紹介しているサイトがある。これによると神社の数は8万1,158。寺院は7万7,256。両者合わせると15万以上である。普段は神社に行かない若者でも、初詣は欠かさないことは珍しくない。
「無宗教」と「宗教に無関心」とでは似て非なるものなのだ。そもそも無宗教とは基本的に無神論であり、神の存在を否定する。日本人でも共産主義者ならほぼ「無宗教」だし、共産党活動をしていた私の父方の伯父も母親の墓参りさえしようとしなかった。
トルコ史研究者の故・大島直政氏はトルコ人から、「無宗教」というのであれば、神が存在しないことを証明して見ろ、と言われたそうで、唯一神の存在を絶対視するムスリムらしい主張だと思った。件のトルコ人は「無宗教」と「宗教に無関心」とは異なると言っていたそうだ。
「世界に稀なる無宗教」というのは、中国人こそが最も当てはまる。中国を愛したインド初代首相ネルーさえ、中国人は世界で最も信仰心の薄い民族と著書に書いていたほど。尤もネルーはその直後、「他のどの信仰心の厚い民族にまして己自身を律していた」と擁護する。さらに中国人は「世界で最もお行儀がよい…礼儀正しい」とまで書いており、これ等が大いなる誤解だったのは現代では広く知られている。
ひと口に多神教と言っても様々な宗教がある。本書で最も印象的だったのは、著者が「強い」多神教と「弱い」多神教に分類し、前者に神道とヒンドゥー教を挙げ、ギリシア・ローマの信仰は「弱い」多神教というのだ。
宗教に疎い又は無関心な人でも、一神教が極めて強い宗教であることは知っている。殊にアブラハムの宗教は、「2006年現在、アブラハムの宗教の信者数は約34億人と推計されている」(wiki)。同年の世界人口が65億人を越えており、信者数だけで全世界の過半数以上を占めている。意外に知られていないが、世界で唯一のユダヤ人の国イスラエルも出生率が高く、この先一神教徒は増えこそすれ、減らないだろう。
対照的に多神教は弱い。キリスト教の興隆で古代ギリシア・ローマの神々は完全に駆除されてしまい、本書にあるように、「キリスト教に敗北したギリシア神話の世界」「現代のギリシャ人に忘れられたギリシア神話の神々」になってしまった。日本ではマイナーな北欧神話もまた キリスト教に敗北し、現代の北欧人に忘れられた。
仏教もまた中央アジアはイスラム化により完全に駆除され、発祥国インドでさえ滅亡してしまった。イスラム以前の中東でも多神教は信仰されていたが、こちらも完全に消滅した。イスラム以前の中東で最も勢力のあったゾロアスター教も中心地だったイランではなく、インドで細々と続いている有様。
そんな中でヒンドゥー教はしぶとく生き残った。中世以来一神教に支配されても信徒数は減らず、一神教は少数派に止まった。信徒数はインド国内で10億人、その他の国の信者を合わせると約11億人以上とされ、世界で第3番目に信徒をもつ宗教である。信者が数億いるかいないかの仏教と違い、ここまでくると民族宗教よりも世界宗教に近い。
その二に続く
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