軍事に関しては未だに疎い私だが、旧日本軍の中でも特に東北・九州兵が強かったことは知っている。対照的に大阪の軍隊はとにかく弱いと言われていた。弁舌が立ち、商人気質で損得勘定に敏く、かつ反権力的な大阪人に対し、東北・九州は封建的でお上に従順な傾向が強いため……と私は単純に思っていた。しかし、頂いた以下のコメントでその理由がようやく分かった。
Unknown (牛蒡剣)
2020-12-24 23:03:47
私は東北 九州兵がつよかったのはもっと単純だったと思います。
簡単言えば軍隊の暮らしの方が、楽で楽しみも多くかつ武勲を上げれば社会的名誉も手に入るチャンスありという環境だったからだと思います。
私の爺様の戦前戦後すぐの暮らしを聞いていると、農繁期なら朝の3時4時に起きて、5時6時の朝飯前に一仕事。(それもの機械ナシの肉体労働)しかも白米だって簡単に食えない。食事は大抵一汁一菜。19時ぐらいまで野良仕事をしてのそのあと農耕用の牛馬を世話して、22時ぐらいに寝る生活です。
翻って軍隊ならどうでしょう?朝の5時までゆっくり寝て、白米が食えて、時には見たことない洋食が食えて、(カレーやかつ 肉じゃがは軍隊から普及しましたね)大抵聯隊の兵営は県庁所在地ですから繁華街も近く、まじめに勤務していれば休日は娯楽にもありつけ、武勲も立てれば、社会的名誉やよい縁組すら期待できる。極楽でしょう。当然、強い軍隊への帰属意識や、戦友との連帯感も生まれ、それゆえに懸命に戦うようになると思います。
自分の体重ほどの軍装を担いで20キロも30キロも歩くのも、作物をを担いて卸し業者まで運ぶのと大差ないし、4キロの小銃を振り回すのも農具を振るうのと大差ないです。つらいしごき以外はそう苦ではなかったと思います。現代の感覚なら軍隊生活は苦しいでしょうが当時ならこんなものでしょう。
祖父もシゴキや古兵の私的制裁は苦しいといっても訓練自体は全然苦にしてないんですよね。米俵1つ(60kg)を片手で持てるのは農村の男なら普通の体力という時代、現に祖父は75歳でガンの手術後でも50キロの米袋を片手でひょいひょい運んでました。
さて関西の都市部出身の兵だと、この辺の「いいところ」が全部ひっくり返り、いやな思いでだらけとなること間違いなしです!軍隊に対する帰属心が希薄になるのも仕方ないでしょう。
ちなみに牛蒡剣さんのお爺様は生まれも育ちも茨城県民だそうで、東北の貧農とさして変わりない生活には驚いた。関東の農家は東北よりも豊かというイメージがあったが、必ずしもそうではなかったようだ。
戦前の機械ナシの農作業がいかに重労働だったか、先のコメントだけでも伺えるが、案外東北でも都市部では知られていないかもしれない。これでは軍隊生活の方が農業より楽だったはず。
牛蒡剣さんは2020-12-23付のコメントで、弱いと云われた大阪兵の実態を紹介していた。
―これは昔から帝国陸軍健在のころから言われていたネタで、大阪兵は弱いといわれてました。
「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊(京都の歩兵第9連隊)もしくは勲章とれんたい(10聯隊)」全部大阪第4師団の部隊というざれ唄があったくらいで関西方面の師団は弱いとされてました。確かこの歌は西南戦争にできた歌だったかと。
とはいえ大阪第4師団弱い弱いといいつつ日露戦争でも活躍、大戦初期のフィリピン攻略戦では活躍しました。ちなみに後半戦には登場せず勝ちっぱなしで終戦。地元茨城の有名な戦前の軍事記者伊藤正徳は「けして4師団は弱くない」と弁護してますが。
逆に東北 九州師団は強い!とみられていて、ここぞという場面では東北 九州師団を転用してます。以前仙台師団はガ島とビルマで2回酷い目にあったと書きましたが、裏を返せば、「頼りになるからやばいところへ投入された」とも言えます。
関西人のスポンジ頭さんからも、「また、大阪の軍隊は偵察に適していたともいいます。適当なところで切り上げて逃げるのが巧みだったのかもしれません。」というコメントを頂いた。偵察も重要な任務であり、風評と異なり大阪の軍隊は有能だった。
東北・九州兵が強かった理由は農村の暮らしにあったようだ。白米が当たり前に食べられる現代日本では想像もできない生活で、旧日本軍を支えていたのは農村出身の男たちだった。
現代、世界最強の米軍も移民出身の兵士が多いと云われる。「実はアメリカ市民権獲得戦争」という記事には、軍に入隊すれば市民権取得が容易となる事情が書かれている。世界最強の傭兵と評判のグルカ兵も、貧国ネパール出身である。
司馬遼太郎は東北兵について辛辣に書いています。確かに関西圏から見ればアホでしょうね。
「これがかりに東北の若者なら、つねに領主の圧政に屈してきた伝統に育ってきたから、「天皇は領主よりもずっと偉いのだ」、といえば簡単に通じる……」