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寂れたアパートのフェンスには、毎年夏になると夕顔が咲いている。
原嶋舞夏は、いつもの帰り道を歩いていた。掛け持ちの仕事をこなしコンビニで買い物をし帰る。楽しみといえるようなものはない。それでも、この時期だけはあれが見られる。
夜だけ咲く、白い花。
すでに錆びてしまっている昔ながらの針金仕様のフェンスに蔦を絡ませて、雅な物語のように儚げな花を咲かす。
何故夕顔なのか、と育てている住人に聞いたことがある。すると干瓢にしようと思ったからだと。しかし意外と難しいらしく、なかなか実らないようだ。
少し手前から、ちゃちな鍵を掌に包みこみ、フェンスが見えると急ぎ足になる。暫し、そこに佇み部屋に入る。それが日課になっているほどだ。
しかし、この日は様子が違っていた。
舞夏の部屋は門を入ってすぐの一階角部屋だ。二階建てアパートは外から見るとお風呂もトイレもないんじゃないかと思われるほど古い。
隣は、年齢不詳の綺麗なお兄さんが住んでいる。いつも穴の開いたジーンズを穿いて、よれよれのシャツを着ている。不規則な時間に出入りをしているので、サラリーマンではないなって思うものの、深夜にドアを開ける勇気もないのでどんな姿で帰ってきているかは知らなかった。
いつもは午前三時より早い時間に帰ってくることはない。
今は午前零時を過ぎたばかり。だから隣の部屋の前に座り込み、背中を丸めた人を見ても誰だかすぐには分からなかった。
今夜は雨だ。
古いアパートには雨避けになるほどの空間はなく、彼はすでにびしょ濡れだった。
「こんばんは」
舞夏が鍵を開けようとすると、声をかけられた。
反射的に振り向き、挨拶を返す。その時、気付いた。
「あ、綺麗なお兄さんだ」
「は?」
彼の前髪から滴った雨粒が、その綺麗としか言えないような顔を濡らしていた。
「どうされたんですか」
自分でも驚いた。会話らしい会話は初めてかもしれない。これまでは挨拶くらいしかしたことなかった。それでも何だかほっておけなかった。
「鍵をね。失くしたらしい」
そっか~
「ドア、蹴っちゃったら如何です? たぶん壊れると思いますよ」
舞夏のその言葉に彼は動かしていた手を止めた。そして爆笑する。
「確かにそうだよな。ピッキングに遭っても簡単に開いちゃうような鍵しか付いてないんだから、ドア壊したとしても弁償金安そうだ」
そう言うと本当にドアノブを覗きこんでいる。
「冗談です。タオル貸しますから待ってて下さい」
そう残して部屋に入り、タオルを持って引き返した。
彼はまだドアと格闘している。バスタオルをスーツの肩にかけると、彼は舞夏を見た。
「図々しいということは分かってる。でも本当に困ってる。頼みを聞いてもらえないだろうか」
その瞳は、とても真剣に見えた。
「できないことは聞けません」
そう言ったら、それもそうだとまた笑う。二枚目は無口なのかと思っていたが、そうではないらしい。
何せ二十歳になるまで男性とつきあったことなどないし、周りにいたのはおじさんという言葉の方が似合うような人ばかりだった。
「一晩、匿ってくれ」
はへ?
言葉になっただろうか。
「匿うって」
「泊めてってこと」
暫し、会話を忘れてしまった。
「同じ間取りだから分かってると思いますが、どこに泊まるんですか」
「畳半畳貸してくれたら体操座りして過ごします」
その言葉を聞いて、思わず笑ってしまった。そして何故か、いいですよと答えてた。
濡れ鼠になっている姿に、小動物にも似た感情が生まれたのかもしれない。
部屋に上がるとすぐに隣の部屋のベルが鳴らされた。誰かが訪ねてきたようだ。
そう言うと、彼は人差し指を唇に当て黙ることを要求してくる。
ま、いいだろう。彼の客である。
買ってきた野菜を洗い、秋刀魚をぶつ切りにして鍋に入れた。
深夜に食事はよくないと思う。しかし他に何の楽しみもないのだ。大した食事でなくても毎日食べたい。
「あの~」
いちお小さな声で呼びかける。よく考えたら名前も知らない。
「私、原嶋舞夏といいます。貴男は」
自分の部屋に聞き耳を立てていた彼は、少し驚いたような表情を見せて振り返る。
「あ、名前。悪い、もう一度教えて」
「原嶋舞夏」
「穂坂桃里」
「穂坂さん。お夕飯食べましたか」
変なことを聞くと思われただろうな。しかし何も聞かないまま食事の支度をするのも気が引ける。
「突然そんなこといって、食べるって言ったら困るでしょ。無理しなくていいよ」
確かに二人分を想定して買い物はしていない。でもあるものを分けるのは簡単なことだ。
「レタスとセロリのサラダ。秋刀魚の生姜煮。ご飯は冷凍してあるものです。一人分だけで作っているわけではないので、お気になさらず」
言いながら二つの皿に盛りつけていると、手伝うと言って近づいてきた。
「じゃ、そこのテーブルに運んで下さい」
食卓なんてものはない。子供の頃から使っている足の畳める小さなテーブルである。彼はそこにお皿や小鉢を並べていった。
いただきます、という言葉を、自分以外の声で聞くのは中学の給食以来だ。こんな質素なものでも美味しいと言って食べてくれる人がいると、いつもよりも美味しく感じるから不思議だった。
暫く他愛もない話をしながら食事を続けていると、再び隣の部屋のベルが鳴った。
「誰か来てますね」
「うん。ちょっと面倒な客がいてね。つきまとわれ」
そこで彼の言葉が突然止まる。
何故なら、今ベルを鳴らした人は部屋に上がりこんだからだ。古いアパートでは、隣のドアが開けばすぐに分かる。今、隣の部屋では、家主以外の人間が歩き回っている。
「鍵、落としたんじゃなくて盗まれてたみたい」
桃里が言いながら苦笑いを見せる。
「お客様?」
「ホストなんだ、俺」
嘘だ、と思った。
ホストって高級マンションに住んでるイメージがある。漫画にもそう描いてあるし、って現実と一緒にするなってことなのかな。
不穏な顔をしていたのか。桃里は最初は家賃百万円のマンションに住むように言われたよと教えてくれる。
「ひゃ、ひゃく万えん」
声がひっくり返ってしまった。
「馬鹿でしょ。後輩の為にそんな家賃を払うなんて。だから此処から引っ越さなかった。このアパート好きなんだ」
小声で話す声は少し掠れて、かっこいいってこういう人のことをいうんだなって思った。ホストって絶対に高いマンションに住んでるわけじゃないんだ。
「舞夏ちゃんも一人暮らしだよね」
ここ長いからさ、と付け加え、親はどこにいるのかと問われた――。
親はいない。
もともと施設に預けられていた。最初は母親からの連絡もあったらしいがいつしか音信不通。それでも中学を卒業したら施設は出される。
中卒の女の子がまともな職に就ける筈もなく、舞夏は近所のスーパーと居酒屋で働いた。どちらも正社員ではなくバイトだった。居酒屋の時給がいいのと安い家賃のお蔭で生きていける、その日暮らしだ。
そんな話を簡単にすると、桃里は驚いた顔をしていた。
「舞夏っていくつ」
「二十歳になりましたよ。成人式はまだですが」
若い、と呟く彼も充分若いと思うけど。
不思議な邂逅ともいえる、夏の夜の出来事である――。
【To be continued.】 著 作:紫 草