*このお話は今週のお題・別館サークル【月】 ~今宵、朔の闇がもとにて~ の続編です。
祖父、武藤絲慈が手渡してくれた一枚の寫眞には、制服姿の許嫁矢木孝貴が写っている。
数年前、旧知の教授に連れられて新年の挨拶に来た時に偶然撮られたものだという。
「この年に限って写真を撮ったんだ。若いがいい漢だと思ったのを憶えているよ。縁のある奴だったのかもしれないね」
祖父との縁を、父は知らない筈だった。
孝貴は教授に学費を工面してもらい大学に通っていたのだから大学院へ進むのは当然だったのだが、父が誘った。財閥を動かしてみないかと。すると彼はその目を輝かせ、やってみたいとはっきり口にしたのだという。
媚を売るような部下ばかりの中で嫌気が差していた時に、偶然知った孝貴は息子としてこの手で育てたいと思う漢だったらしい。何より親を持たない彼は、人当たりが柔らかだった。幼い眞綺が怖がることなく話せるかと思ったのだと付け加えられた。
まだ何も知らされていない頃から、多くの男たちが篩に掛けられていた。そして孝貴は選ばれただけでなく、父の下でその腕を磨いていたのだった。
孝貴がやってきたのは聞かされていた午後ではなく、午前、それもまだ早朝といえる午前九時だった。
継母が初めて眞綺を呼び、夫の部屋になるのだから自分の目で確認するようにと言う。そして調度品を含め家具の配置を決めようとしていた時、孝貴の声が聞こえてきたのだ。
眞綺も驚いたが皆も驚いた。
ともかく玄関に急ぎ、挨拶もそこそこに応接間に入ってもらう。
彼からは、まず無礼な時間の訪問を詫びられた。そして父から、今日の予定として午後こちらに入るよう言付けられたと言う。つまり彼も今日のことは突然の話だと分かる。
そこで急遽休みをもらい、急ぎこちらへやって来た。事情を説明し終わったところで、継母に向かい改めて頭を下げた。
「もし差し支えなければ、今の眞綺さんの離れをそのまま使わせて下さい」
離れのことを知る孝貴に、継母は驚いていた。
昨夜、シルエットだけで現れた男が孝貴か否かはまだ分からない。しかし、どういう関係であれ離れを知るのは当然だろう。
用意するべき部屋は決まっている、という継母の言葉を孝貴はやんわりと、しかしはっきりと断った。
継母は父に連絡をするからと席を外し、眞綺もついて出ていこうとすると声をかけられた。そして話をしようという。
今更、初めましてもないけれど、と前置きして彼は話し始めた。
「昨夜は申し訳ありませんでした。悪戯心といって許されるものではないけれど一人で離れにいると聞いてどんな場所か無性に見てみたいと思いました。何よりたった一人で住んでいるという貴女を見ておきたかった」
孝貴は立ち上がった。そして入り口に立つ眞綺の真っ正面に来て顔を覗き込んでくる。
「僕はまだ候補だそうです。だからこそ貴女の離れに入りたい。部屋はありますよね。昨日見たんだから嘘はなしですよ。寝室は正式に話が決まるまで別にします。荷物は僅かな洋服と本しかありません」
聞きながら、眞綺はこの人を昨日と男と同一人物だと確信していた。そして受け入れている自分に気付いていた。
「どうか離れに入ることを許してもらえませんか」
その言葉を聞き終わった時、継母が戻ってきた。
「離れのことは私には分かりません。眞綺に聞いて下さい」
それだけ言うと彼女は出ていった。入れ替わりに祖父が入ってくる。そして改めて座るよう促した。
久しぶりだね、という挨拶と私を覚えているかという問いかけで祖父の話は始まった。彼はすぐに当然覚えていると答える。
「離れのこととはいっても眞綺に決断を迫るのは可哀想だろう。私が許可をしよう。二階にある一部屋を使うといい。今は物置になっているだけだから、一日あれば片付けられるだろう」
言いながら、祖父は隣に座る眞綺の頭を撫でる。
「話し相手ができる。いろいろな話をしてもらうといい」
俯いていた顔をあげると、祖父が笑っていた。
決まれば、やることはたくさんあった。
「では二階の部屋から要らないと思われる荷物を出しましょうか」
彼は友人を呼ぶので、家具を動かすこともできるという。それならばと祖父の方が母屋の家具の移動を頼んでいる。
祖父と孝貴がいれば眞綺は必要ない。今から行けば一限目の遅刻で間に合う。学校に行ってもいいかと祖父に聞いた。いつもなら眞綺の頼みに駄目ということはない。否、そもそも眞綺が何かを頼むことはない。
なのに祖父は何もしなくていいから、今日は家にいなさいと言う。暫くすると祖母が母屋にいたらいいと告げにきた。
「分からないことがあれば聞きに行きます。眞綺さんの部屋には入りませんから安心して下さい」
そう残すと、友人が来るまで離れの荷物を纏めるという孝貴は二階に上がっていった。
「いいお婿さんになりそうですね」
祖母は母屋から離れが見える窓辺に立ち、そんな風に言って微笑んでいる。
「私には分かりません」
「眞綺は好き嫌いがすぐに分かりますからね。矢木さんのこと、嫌いではないのでしょう」
祖母のその言葉は何となくくすぐったい。
返事のしようもなく窓に目を向けると、孝貴が大きな柳行李を運び出しているところだった。
「おばあ様。私、やはり手伝って参ります」
「それがいいですね。隣で立っているだけでいいんですよ」
振り返ると祖母がこれまでよりも、ずっとずっと優しく微笑んでくれていた。
一五歳で婚約した眞綺は、その後女学校の高等科を卒業するまで離れの一階と二階に分かれ孝貴と暮らした。
父が挙式の日取りを決めようとした時も孝貴は眞綺の学校を優先すると言い、いつしか父の元を離れた彼は一人前の貿易商となっていた。
秋は綺麗だ。
どこに出かけても絵画のような景色に目を奪われる。孝貴が、そのなかに眞綺の花嫁姿を見たいと言ったことで二人の結婚が動きだした。
戦局がいよいよ怪しくなってきた時代。
そんななかにあって眞綺は花嫁御寮となった。孝貴は近く満州に渡ろうかと話す。
離れを建替え、新居の庭に雁渡し。いつしか秋も深まっていた。北風は今後の世相を現しているのだろうか。
どんな暮らしが待っているかも分からない。しかしそこに孝貴が、そして眞綺が居てくれたら生きていけると互いに思う二人なのであったーー。
カテゴリー;Novel
祖父、武藤絲慈が手渡してくれた一枚の寫眞には、制服姿の許嫁矢木孝貴が写っている。
数年前、旧知の教授に連れられて新年の挨拶に来た時に偶然撮られたものだという。
「この年に限って写真を撮ったんだ。若いがいい漢だと思ったのを憶えているよ。縁のある奴だったのかもしれないね」
祖父との縁を、父は知らない筈だった。
孝貴は教授に学費を工面してもらい大学に通っていたのだから大学院へ進むのは当然だったのだが、父が誘った。財閥を動かしてみないかと。すると彼はその目を輝かせ、やってみたいとはっきり口にしたのだという。
媚を売るような部下ばかりの中で嫌気が差していた時に、偶然知った孝貴は息子としてこの手で育てたいと思う漢だったらしい。何より親を持たない彼は、人当たりが柔らかだった。幼い眞綺が怖がることなく話せるかと思ったのだと付け加えられた。
まだ何も知らされていない頃から、多くの男たちが篩に掛けられていた。そして孝貴は選ばれただけでなく、父の下でその腕を磨いていたのだった。
孝貴がやってきたのは聞かされていた午後ではなく、午前、それもまだ早朝といえる午前九時だった。
継母が初めて眞綺を呼び、夫の部屋になるのだから自分の目で確認するようにと言う。そして調度品を含め家具の配置を決めようとしていた時、孝貴の声が聞こえてきたのだ。
眞綺も驚いたが皆も驚いた。
ともかく玄関に急ぎ、挨拶もそこそこに応接間に入ってもらう。
彼からは、まず無礼な時間の訪問を詫びられた。そして父から、今日の予定として午後こちらに入るよう言付けられたと言う。つまり彼も今日のことは突然の話だと分かる。
そこで急遽休みをもらい、急ぎこちらへやって来た。事情を説明し終わったところで、継母に向かい改めて頭を下げた。
「もし差し支えなければ、今の眞綺さんの離れをそのまま使わせて下さい」
離れのことを知る孝貴に、継母は驚いていた。
昨夜、シルエットだけで現れた男が孝貴か否かはまだ分からない。しかし、どういう関係であれ離れを知るのは当然だろう。
用意するべき部屋は決まっている、という継母の言葉を孝貴はやんわりと、しかしはっきりと断った。
継母は父に連絡をするからと席を外し、眞綺もついて出ていこうとすると声をかけられた。そして話をしようという。
今更、初めましてもないけれど、と前置きして彼は話し始めた。
「昨夜は申し訳ありませんでした。悪戯心といって許されるものではないけれど一人で離れにいると聞いてどんな場所か無性に見てみたいと思いました。何よりたった一人で住んでいるという貴女を見ておきたかった」
孝貴は立ち上がった。そして入り口に立つ眞綺の真っ正面に来て顔を覗き込んでくる。
「僕はまだ候補だそうです。だからこそ貴女の離れに入りたい。部屋はありますよね。昨日見たんだから嘘はなしですよ。寝室は正式に話が決まるまで別にします。荷物は僅かな洋服と本しかありません」
聞きながら、眞綺はこの人を昨日と男と同一人物だと確信していた。そして受け入れている自分に気付いていた。
「どうか離れに入ることを許してもらえませんか」
その言葉を聞き終わった時、継母が戻ってきた。
「離れのことは私には分かりません。眞綺に聞いて下さい」
それだけ言うと彼女は出ていった。入れ替わりに祖父が入ってくる。そして改めて座るよう促した。
久しぶりだね、という挨拶と私を覚えているかという問いかけで祖父の話は始まった。彼はすぐに当然覚えていると答える。
「離れのこととはいっても眞綺に決断を迫るのは可哀想だろう。私が許可をしよう。二階にある一部屋を使うといい。今は物置になっているだけだから、一日あれば片付けられるだろう」
言いながら、祖父は隣に座る眞綺の頭を撫でる。
「話し相手ができる。いろいろな話をしてもらうといい」
俯いていた顔をあげると、祖父が笑っていた。
決まれば、やることはたくさんあった。
「では二階の部屋から要らないと思われる荷物を出しましょうか」
彼は友人を呼ぶので、家具を動かすこともできるという。それならばと祖父の方が母屋の家具の移動を頼んでいる。
祖父と孝貴がいれば眞綺は必要ない。今から行けば一限目の遅刻で間に合う。学校に行ってもいいかと祖父に聞いた。いつもなら眞綺の頼みに駄目ということはない。否、そもそも眞綺が何かを頼むことはない。
なのに祖父は何もしなくていいから、今日は家にいなさいと言う。暫くすると祖母が母屋にいたらいいと告げにきた。
「分からないことがあれば聞きに行きます。眞綺さんの部屋には入りませんから安心して下さい」
そう残すと、友人が来るまで離れの荷物を纏めるという孝貴は二階に上がっていった。
「いいお婿さんになりそうですね」
祖母は母屋から離れが見える窓辺に立ち、そんな風に言って微笑んでいる。
「私には分かりません」
「眞綺は好き嫌いがすぐに分かりますからね。矢木さんのこと、嫌いではないのでしょう」
祖母のその言葉は何となくくすぐったい。
返事のしようもなく窓に目を向けると、孝貴が大きな柳行李を運び出しているところだった。
「おばあ様。私、やはり手伝って参ります」
「それがいいですね。隣で立っているだけでいいんですよ」
振り返ると祖母がこれまでよりも、ずっとずっと優しく微笑んでくれていた。
一五歳で婚約した眞綺は、その後女学校の高等科を卒業するまで離れの一階と二階に分かれ孝貴と暮らした。
父が挙式の日取りを決めようとした時も孝貴は眞綺の学校を優先すると言い、いつしか父の元を離れた彼は一人前の貿易商となっていた。
秋は綺麗だ。
どこに出かけても絵画のような景色に目を奪われる。孝貴が、そのなかに眞綺の花嫁姿を見たいと言ったことで二人の結婚が動きだした。
戦局がいよいよ怪しくなってきた時代。
そんななかにあって眞綺は花嫁御寮となった。孝貴は近く満州に渡ろうかと話す。
離れを建替え、新居の庭に雁渡し。いつしか秋も深まっていた。北風は今後の世相を現しているのだろうか。
どんな暮らしが待っているかも分からない。しかしそこに孝貴が、そして眞綺が居てくれたら生きていけると互いに思う二人なのであったーー。
【了】 著 作:紫 草