カテゴリー;Novel
4月自作/『面影』
望まない邂逅は、更なる傷をつけるだけだ――。
「僕のこと、憶えていますか」
さほど広くない喫茶店にその人は入ってきた。そして、そのまま穂乃花のそばに立ち、こう言ったのだ。
大学生だろうか。大き目のバッグを一つだけ肩にかけ、シャツにジーンズという姿だ。色白のすっきりとした顔立ちで、カフェラテのグラスを手にしたままの自分を見下ろしている。
「人違いです」
穂乃花は慣れない営業の仕事に疲れていた。でもやっと決まった就職先を辞める勇気もない。だから外に出ると、この目立たないお店の片隅で時を過ごす。いつまでも続けるわけにはいかないと知りつつも、営業先へ行くのを躊躇してしまう。その逃げ場所だ。
だからこそ、こんな場所で知り合いに遇うわけがない。
「そうですか」
彼はそれだけ言ってカウンターの奥に消えた。どうやらバイトのようだった。
その日から気付けば彼の姿を捜すようになっていた。いつもサボっていたから、その時間はかなりのものになるだろう。しかし、どんなに待ってもその後、彼を見ることは叶わなかった。
僕を憶えているかと聞いた彼。
どこかで遇っただけなら、あんな言葉にはならない。どうして彼は、憶えているかと尋ねたのだろうか。
……山下穂乃花。
彼女は、もう忘れてしまったようだ。犯人扱いした広太のことを。警察で受けた数々の仕打ちは、自分を人間として生活不能者に仕立て上げた。それなのに。
たった一言、
『この人、痴漢です』
と叫んだ女は、高価なスーツに身を包み、こんな平日の明るい時間に喫茶店で時間をつぶせるような優雅な生活だ。
思わず声をかけてしまった日から、気付けば彼女をよく見かけるようになった。以前から来ていたのだろうか。
店長に言ってシフトを夜に変えてもらっても、時折姿を見た。
やってもいない痴漢を『やった』と認めて出してもらった。やってもいない犯罪で前科がついた。親にも責められ、学校にも通えなくなった。有名私立高校は退学するしかなかった。犯罪を認めても、結局自分には何の得にもならなかった。
警官は嘘つきだ。認めてしまえば早く帰れる、なんて言葉で誤摩化して、その後の人生までは責任をとってくれない。
どんなに隠しても、どこからか噂は広がっていった。それはそうだろう。同じ電車に乗っていた生徒はきっといた筈だから。
認めなければ裁判。認めても前科がつく。どちらにしても人生は転落するしかない。女の言い分ばかりを信じた警察を恨み続けた数年間だった。
大検を受け、やっとデザイン科のある大学に入った。将来の為に目の色を変えて勉強する奴などいなくて、みんな自分の才能を磨くことに懸命な学生の集まり。そこで谷川広太は漸く居場所を見つけ、引きこもりから抜け出せた。
バイトも始め、両親や弟からも信じてもらえるようになった。事件からすでに五年という月日が過ぎていた――。
それなのに、どうして広太を犯罪者扱いした女に声をかけてしまったのだろう。
その上、全く憶えてもいなかった。人の人生台無しにしておきながら、何て無責任なんだと思わず怒りが湧いた。
暫くして店長から、件の女から広太のことを聞かれたと教えられる。過去のことを知っている店長は警戒し、何も教えなかったらしいが、どうして半年以上も経って尚、気にかけているのだろうか。
もしかしたら何かを思い出したのか。
そんな筈はないか。
人違いだと言った時の彼女は、気軽に声をかけてきたナンパとでも思っているような顔をしていたのだから。
……あの人。
穂乃花を憶えているかと問うてきた彼を、暫くして全く別の場所で見かけた。大学時代によく利用した路線の電車の中で。傲慢だった頃の自分を象徴するようなことがあった車内。
あの頃、男と別れてイライラしていた。そんな時、隣の男の腕を取り痴漢だと叫んだ。その時はスカートに触られたからと言い張ったが、よく見ればまだあどけなさの残る高校生だった。
あの後、警察から認めたという話を聞き、もう終わったと思っていた事件だ。
あの時の高校生だ。すっかり忘れていた。どうして忘れてしまったのか。答えは簡単。痴漢などされていなかったから、何の恨みもない。あったのはフラれた男への怨嗟だけだった。
謝りたいと思った。
もし自分の人生が悪い方へ転落していくきっかけがあったとしたら、あの人に無実の罪を着せてしまった瞬間だ。
あの再会から半年。結局、会社をクビになり実家に戻ることになった。許してもらえないのは分かってる。でも謝りたかった。
勇気を出して店の人に聞いてみたが、取り次いではもらえなかった。個人情報という壁は穂乃花を彼に近づけることを拒んでいる。彼にちゃんと謝罪して、人生のリセットをしたいと思ったけれど、そんなに簡単なことではないようだ。
苦しめてしまったであろう彼に、せめて幸せが齎されることを祈っている。最初にちゃんと憶えていれば、あんな言葉を投げかけたりしなければ自分にも、もう少し明るい未来があったのかもしれない。
人は守られている時、望むことが何でも通るような錯覚をしている。しかしそんなことは決してない。社会に出れば競争が待っていて、否、就職するだけにも競争があった。自分は希望した全てに敗北し、その苛立ちを片親の母にぶつけた。その母が再婚すると言って家を出ていった。成人しているのだから一緒にくる必要はないと言われ、初めて孤独の意味を知る。
人の過ごした時間を巻き戻すことはできない。まして傷つけた人に許してもらうことなど到底できる筈もない。
仕事を見つけなければ。
でもその為には、また何かしらの嘘で固めた自分を演じることになる。お粗末な自分の生き方に、いつか明るい未来がやってくるのだろうか。
一人暮らしをしていた頃も、たいした家事をしていたわけじゃなかった。でもアパートと古くても一軒家では、最低限のという同じ言葉を使っても家の荒れ方は大いに違った。
母がいた頃は、全てに頼っていたのだと漸く気付く。いいことは続かない。悪いことは倍々ゲームのように増えていく。帰る場所があってよかったと喜んだけれど、この荒れ果てようとしている家と一緒に自滅していきそうだ――。
広太は穂乃花を訴えてやろうと思ったこともある。しかし止めた。あんな女にもう関わりたくなかったから。なのに何てお人よしなんだろう。自分から声をかけてしまうなんて。
その後味が最悪のものになっていくとは、その時の広太は予想だにしていなかった。
あの邂逅から一年半程が過ぎたとある日、小さな新聞記事を母が見つけた。
『都会の一軒家で女性が餓死』
分かるのは三ヶ月以上前に死んでいたこと。孤独死だったこと。そして名前だけだった。
それだけの記事の隙間を広太には埋めることができた。
彼女は仕事を解雇され、実家に戻ると今度は母親が再婚で家を出ていった。隣近所に人は住んでおらず、引きこもり状態だったという。
姿を消した彼女が気になって、一度だけあの辺りを訪れたのだ。その時、少し離れた公会堂から出て来た人に様子を聞いた。記事を信じれば、それから数ヶ月後、彼女は逝った。
広げた新聞の先に母の顔がある。彼女の名前、よく憶えていたよね。広太の脳裡には、穂乃花の伏し目がちな表情が浮かぶ。喫茶店に座る面影は当分忘れられそうにない――。
【了】 著 作:紫 草