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6月自作/『狡さ』
「相談に乗って欲しいことがあるんです――」
優しい言葉に溢れた彼は会いたいと言えば、いつも時間を割いてくれる。初めから下心があったか、と問われたら否定はできない。
でも、女の恋愛だって闘いなのだ。
いつも、いつだってすぐに飛んできてくれた。だから気付かなかった。左の指になかった指輪が、別のところに存在していることに。
春。同じフロアの新人歓迎会をまとめてするということで比較的大きな居酒屋の二階の座敷を借り切っていた。歓迎会とはいっても、上司たちも檻のなかの猿である。同期や年齢の近い社員の間でこそこそと内緒話に花が咲く。
A部長は愛妻家。もうすぐ二次会前に帰っていくとか。B課長はバツありの独身で、この後はカラオケに誘うから待っていろとか。
彼もそんな噂のなかの一人だった。
川村さんは優しいんだよ。あれで身長があと十センチ高かったら、もっとモテるよね。そう言ったのは、一年先輩になる女性だった。いろいろな席を回りながら、同じ班でない社員とも会話が弾んでいる。
そんな中の言葉の一つだった。
『女は少しくらい我が儘言う方が可愛いよ』
思わず声のした方を向くと、彼の視線と重なった――。
就活に頑張り過ぎて、かれこれ二年くらい恋人はいなかった。特に淋しいとも思っていなかった筈なのに、彼の視線を受け止めてからというもの、気になってつい捜してしまう。
好意という感情の前に、視線と微笑みがあった。
始まりは相談だった。
今となっては、どんな内容だったのかも憶えていない。それはそうだろう。単純に二人で会いたかっただけだから。彼はその日のうちに時間を作ってくれた。それからは会いたいと言えば来てくれた。長期のお休みも比較的一緒にいた。
どこまでを我が儘というのかは分からない。でも、それだけじゃないと思い込んでいた。
ある日、ふと気づいた。
「どうしていつも裏道を歩くの?」
頭に浮かんだ時には言葉になっていた。いつもは流れるような会話のなかで返事がくるのに、言葉が切れる。
「この道の方が近いだろ」
その、ほんの一瞬に心が揺れた。何だろう。感じたことのない黒い思いが奔る。
「川村さん、私に隠し事してますか」
いつも何を聞いても許されていた。言葉を阻まれたことなどなかった。だから何の言葉もない空間に、彼の表情に疑心を抱く。そして疑えば目に鬼を見る。
この人、……誰。
翌朝。
同期の女子社員に聞いた。川村さんって恋人がいるのかなと。
「恋人どころか、奥さんがいるよ」
衝撃が大きすぎて言葉を失った。
つきあっているわけじゃない。
食事をしたりホテルに行ったり旅行したり、でも彼は決して部屋に来ようとはしなかった。当然、彼の家に呼ばれることも。それだけじゃない。彼のこと、何も知らないことに初めて気付いた。
職場が同じ。それだけだ。
もしかしたら家庭が上手くいってないから、自分と会っていたのかもしれない。愚かな女は都合よく物事を捉えようと必死になる。仕事にも身が入らず、彼の姿ばかりを追ってしまう。
そんな状態で取り返しのつかない失敗をしてしまった。契約書の金額を桁間違いで提出して億という損失。
社長を始め、多くの社員が奔走していると聞いても何もできなかった。
いったい何をしているんだか。
こんな時、以前なら躊躇いなく会いたいと連絡しただろう。ただ今回は何も言わなくても来てくれると思っていた。これまでの彼を信じたかった。お前はそのままでいいと言ってくれた彼は、慰めて欲しいと言わなければ、電話の一本もかけてはくれないと思い知らされた。
「川村さん」
終業を待って、出入り口で声をかける。数人の男性社員と出てきた彼は、黙って彼らに合図をするとこちらに近づいてくる。言葉はなかった。ただ彼らとは逆の方向に歩きだす。
そうだった。いつも人に見られない場所を歩いた。都内で会う時も会社とは離れた場所に出向いた。待ち合わせが多かったのも、出先から大急ぎで駆けつけてくれると思っていたけれど、そうじゃない。きっと見つかる可能性が低いからだ。
少し行くといつもの裏道に入っていく。
「やっぱり、この道を歩くんですね」
聞こえているだろうに、聞こえない振り。どこまで行くつもりだろう。そのまま黙って歩いていると、大通り側にある公園の前まで来た。
「大人のつきあい。そう解釈していたが違っていたのかな」
辞表を出そうかと悩んでいる。そんなことを話せる雰囲気ではなかった。
「私が望んだことを叶えただけだと?」
「今更、綺麗ごとを言っても仕方がない。今度は何を望むんだ」
そう言った彼の瞳に、鬼を見たような気がした。
お酒が飲みたいと言ったから飲みに行った。抱いて欲しいと言ったから抱いた。ここで結婚して欲しいと言ったらどうなるんだろう。
その時、彼のスマホが鳴り出した。これまで一緒にいてスマホが鳴ったことはない。どうするだろうと見ていると、彼は画面を確認し耳に当てた。
ストラップのように小さな鎖で繋がるものが見えた。何だろうと目を凝らす。それは、結婚指輪だった。
電話は部長からのようだった。切った彼は会社に戻らなければならなくなったと言い、背を向ける。
「待って。望むことは何かと聞きましたよね。私と結婚して下さい」
醜い顔をしているだろうな。それを分かっていながら止められない。
「望むなら叶えてくれるんですよね」
もう少しだけ歩けば明るい表通りで出る。でも出られない。
「今夜は一緒にいて欲しい」
どんな状況か分かってる。だからこそ一人は怖い。察して欲しかった。
「貴方が好きなの」
その刹那。
彼との空間が一気に凍ったと思った。
「悪いが結婚だけはできない。君に家庭を求める愛情を持ち合わせてはいない」
遠ざかる彼の背に視線を送る。しかし彼が振り返ることはなかった。
あれから二年。その後、彼に連絡を取ってはいない。
クビになることはなかったが、異動で資料整理に回された。裏道は何処まで行っても、裏道のまま表に出ることはできなかった。
「ここか?」
そう言いながら入ってきた二人の社員。一人は川村だった。
「必要な資料のリストをこのノートに書いて下さい」
彼は胸ポケットからボールペンを出して、いくつかの名前を書いていく。
「棚に年度が書いてあるから、お前取ってこいよ」
もう一人の男性社員が手にしたプリントを見ながら奥に入っていった。
「ひどい人ですね。みんなに同じボールペンをプレゼントさせているんですか」
そう言うと少しだけ彼の手が留まる。
「これは、お前が贈ってくれたものだ。他の誰にも貰ってない」
「今更、そんなこと言わないで下さい」
でも入れたネームで、それが真実だと分かってしまう。
「男はいつだって狡いんだ。それでいい。次は、ちゃんとした男を捕まえろ」
程なくして資料を手に戻った社員と共に、川村も出ていった。
長く悲しい恋が、漸く終わった。大きなため息をゆっくりと吐き出すと、肩の荷をおろしたように気持ちも軽くなっていた――。
【了】 著 作:紫 草