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Ⅴ
少し酔った、と沙柚が再び席を立ち、窓辺に近付きよりかかった。
窓のカーテンをあけ、頬をつけると冷気が体の酔いを落ち着かせてくれるらしい。
そして、静かに彼女は語り始めた。
「三年前の今日。私は親に売られたの。会ったこともない人と戸籍だけで結婚して、お金だけは湯水のように与えられた。でも嫁ぎ先と連れて行かれた家には、人の気配も温度もなかった」
沙柚は我慢ができなくて家を飛び出したのだと。
そして行く当てもないままに、あの店の前に辿り着いた。
「疲れて、ただもう歩きたくなくて留まっていたの」
あの時の、彼女の顔が思い出される。
「あの時、凪が声をかけてくれなかったら、きっと私は今、生きてはいないわ」
「離婚してもいいと言われたのは十日前のことだった」
当主の余命が幾ばくもないと知った親族が、遺産のことを考えて沙柚を追い出すことにしたのだという。
「結局、私の実家は立ち直ったけれど帰りたくない。追い出された以上、戻るところもない。ただ一度だけでいいから、凪とずっと一緒にいたかったの」
そう言い終わると、沙柚は着物の紐を解き始めた。
一本、また一本と、解きながら帯が床に落ち、やがて着物にも手をかけ下に落とす。紅の着物が落ちたら、薄いピンクの何かが生まれたように凪には映った。
「待って」
凪は思わず、止めた。
「どうして?」
足袋を脱ぎ捨て、裸足になったところで彼女は漸く手を止めた。
「そこじゃ、外から丸見えだよ」
いくら最上階のスィートとはいえ、同じような高級ホテルは高さが同じだろう。誰に見られているか、分かったもんじゃない。
そう言ってやると、沙柚は珍しく声を出して笑った――。
Ⅵ
「あ」
凪の驚いたようなその声に、沙柚が不思議そうな顔をみせる。
「何」
凪は、顎で外を示す。
振り返り窓に向いた沙柚は薄いピンクの下着姿のままだ。その背中越しに、ふわふわと落ちる白いものが在った。
まるで落ちてゆくことを拒むように、右に左に少しずつ動きながらそれでもやっぱり落ちてゆく。
「雪…」
沙柚が呟いた。
「ぼたん雪だな」
寒そうに見える彼女を、背中から抱き締めた。
ベッド行こうか。
そう言うつもりで、やめた。彼女が納得するまで雪を見ていればいい。
今夜は、ずっと一緒だから。
「凪」
「ん?」
「ありがとう」
雪は、凪が降らせたわけじゃない。そう言っても、沙柚は凪がいたから雪も降ったのだと言ってきかなかった。
もう暫くすると、うっすらと屋根が白くなるだろうか。
それとも融けて消えてしまうだろうか。
そんなことを考えていると、沙柚がくすくすと笑い出した。
再び、何だろうと聞いてみる。
「明日の朝になれば、分かるよ」
一瞬、言葉の意味は分からなかった。
あ。
積もっているのか、いないのか。
「明日の朝。一緒に見ような」
「うん」
彼女は振りかえることなく、そう答えた――。
Ⅶ
翌朝。
凪は先に起きていた沙柚を、ベッドから寝惚け眼で眺めていた。
カーテンを開け放つと、そこには真白に染まった街が見えた。
銀世界と化した都会は、いつもの現実から目をそらしそのまま夢の世界が続くように綺麗だった。
凪はその時、その隠された銀世界に、決して忘れてはならない言葉を置き去りにしてしまった。そのことに気付いたのは、この朝の別れから十日ほど経った夜のことだった。
いつものように、
《今夜時間が取れた。飲もう》
という短いメールを送信する。
しかし直後、エラーというメールが返信されてきてしまう。どういうことかと電話をかけた。
沙柚の携帯番号からは『使われていない』というメッセージが流れてくるだけだった。
あの夜。彼女は何を告げた。
凪は、必死に思い出そうと努め、そして辛うじて思い出す。
『戻るところはない』と、彼女はそう言っていた。そして、『一度でいいから、凪とずっと一緒にいたかった』と。
凪は、その言葉の意味に漸く気付いた。
沙柚は、自分の前から姿を消す覚悟を決めて、あの夜の時間を作ったのだということに。
愚かな自分。
何も気付いてやれなかった、情けない自分。
彼女の消息を知ることは、もう永遠にないかもしれない。
何故なら、凪は何も知らなかったから。名前と、携帯があれば繋がっていると信じてた。
そんなことある筈ないのに。こうして解約されてしまっては、携帯など何の保証もない、ただの機械でしかない。
消されることのない、沙柚の携帯のアドレスと番号を、凪は時々開いてみる。
かけることのない番号。送ることのないメールは保存フォルダーを埋めた。
あれから、雪が降ると思い出す。そして思うのだった。
あの日、あの雪を降らせたのは、もしかしたら沙柚の気持ちだったのかもしれないと――。
【了】
著作:紫草
NicottoTown サークル「自作小説倶楽部」より 12月分小題【雪・氷】