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―紅葉狩りへ行こう。
田嶋紗江子からの電話がかかってきたのは、彼女が三枝和紗に置き去りにされた二週間後のことだった。
土曜の早朝。
すでに親公認の半同棲である。誰からの電話に出ようと困ることはない、が…。
「あんた、馬鹿だろ」
驚き過ぎて飛び起きた。
和紗は枕元に置いてあったスマホのメモを呼び出し、真っ新な画面に『紗江子』と打った。
「代わるよ」
そう言ったかと思うと子機を渡してきた。
―花音。今日、すっごくいい天気だよ。秩父の方まで紅葉狩りに行こうよ。
二十分後。
彼女は駅前の本屋に着いたと電話をしてきた。まだ開店してないから早く来てくれというものだった。いったい何処からかけてきたのだというくらい早い。
「ドトールにいてよ。支度終わったら出るから」
とりあえず軽装のハイキング仕様だ。
和紗には来なくていいと言った。でも、花音一人だとまたどんな難題吹っかけられるか分かんないから、と付いてくるという。
それに単純に紅葉狩りだと思えば、最高の小春日和だとも。
今年は秋が短かった。残暑が続き、衣替えのタイミングも分からないまま半袖と長袖を交互に着ているような状態だった。
山では落葉も見られるかもしれない。オレンジや黄色の絨毯は、やはり遠出をして体感するのが一番楽しめるだろう。
「じゃ、行きますか」
和紗がそう言って鍵を持つ。花音は頷いて部屋を後にした。
紗江子に会うとすぐに私鉄の特急電車の指定席切符を渡される。どうやら前もって用意していたらしい。
「和紗が来ないとは思わなかったの」
ちょっと意地悪で聞いてみた。
「来るに決まってる。花音に酷いこといっぱいしてたの、知ってる人だから」
そう言って舌をペロッと出した。
紗江子はもしかしたら変わったのかもしれないと、初めて思った。
電車では向かい合う席に紗江子が座る。そして結婚までの経緯や旦那さんの浮気のことを改めて聞かされた。
「馬鹿だったのよね。稲場君に別れるって言われて、それからすぐに結婚の話が出たでしょ。絶対に先に結婚してやるって意地だけだったから」
合コンで知り合ったというから、お見合いではなかったらしいが会って数回でプロポーズしたっていうのは早計に失するだろう。
携帯にある写真は結婚式のもので、長身で白燕尾を着ててもかっこいいねと言える男性に見える。そう言うと見かけだけで選んだようなものだからと自嘲していた。
「別れようと思ったんだ。でも結婚してって言葉は勢いで言えても、離婚は言えない。離婚って結婚の何十倍、ううん、何百倍もエネルギーがいるんだよ」
知ってる? と問われても結婚もしていない花音に分かる筈がない。
「それで浮気してることにしようと思ったの」
「そう。和紗君なら私の本性バレてるから、今更恥の上塗りしてもいいかなって」
ずっと眠っているのかと思っていた和紗が、それを聞いて本当に馬鹿だなと言った。
「起きてたんだ」
「何のために付いてきたと思ってんの」
軽くデコピンされて、額を押さえる。
「相変わらず仲いいね」
その発した声のトーンに、彼女は本当に淋しいんだと感じた。
「そうでもない。私、この前紗江子と会うっていう和紗に怒ってた。紗江子にも嫉妬した。いつも取られちゃってたから」
新人の頃から、何人も花音を素通りして紗江子を選ぶのを見てきたのだ。
あの日、和紗が捜しにきてくれなければ今の自分はもっと醜い感情を育ててしまっていただろう。
そして本音が言えるって、何ていいことなんだろうと痛感している。
「愛人がいるって知ったのは、結婚して三日目だった」
彼女の言葉は唐突に始まった。思わず和紗と顔を見合わせる。
「何もこんなところで話さなくても」
彼の言葉に、紗江子は今だからいいと言う。
「きっと罰が当たったんだよね。今までいろんな人を傷つけてきたから、今度は自分が傷つけられてる。でも誰も心配してくれなかった」
みんな、あっちが浮気してるなら自分もすればいいって言う人ばっかりだったと話しながら涙を浮かべてる。本当に浮気してやろうと思ったら、もう相手もいなかったよと笑った。
そんな時、偶然上司と歩いている和紗を見かけたらしい。
「それこそ一番罵倒されそうな人でしょ。だからその時は見つからないように帰ったの」
それでも会話もない結婚生活は虚しかったらしい。それで花音に電話をしたのだと。
「本当はね。花音に話を聞いてもらいたかった」
でもね、と言って言葉を切る。
「和紗君に会いたいって電話なら、花音の声が聞けるかなって思ったんだ」
まさか本当に和紗が来るとは思わなかったという。
「すごく嬉しくて。花音は全然変わってないんだなって」
そう思ったら、どうしても一緒に遊びに行きたくなったのだと。
「それで紅葉狩りなの」
以前ならあり得ないセレクトだね、と言うと出てきてくれるなら何処に行こうかと必死に考えたと言ってはにかんだ。
「紗江子、本当に馬鹿になったんだね。それってさ、きっと旦那さんのこと、すごく好きだからだと思うよ」
相手のことを考えて、どうしたら楽しんでくれるかなんて発想、紗江子にはなかった。いつも自分の楽しいことが一番だった。
「素直に言ってみたら。浮気はやめてって」
最初は勢いだったかもしれないけれど、今は本当に好きなのって。
この日。
我々は浦山ダムに出向いた。水の流れのある場所での紅葉はそれは見事だ。
現地の人に言わせると、紅葉が遅れてどうなるだろうと思っていたらしい。それでも滅多に来ることのない自分たちは充分楽しめるものだった。
折角だから泊まっちゃおうか、と紗江子が言ったところで彼女の携帯が震えだした。
「旦那さん?」
聞いたら、黙って頷いた。何も聞けずにいた花音に代わり、和紗が何だってと聞く。
「何処にいるんだって。あとは何にも書いてない」
メールだったらしい。
「電話しろよ。それで迎えにきてくれって頼んだら」
和紗が、それで無視されるようなら別れちまえと言う。
そんな簡単な話ではないだろうと思うが、もしかしたら、そのくらい簡単なことなのかもしれない。
「もし無視されたら、一緒に泊まってくれる?」
早くも涙目になってる彼女の頭を、和紗は持っていたパンフで叩いた。
「かける前から泣き言なんて、先輩らしくありません」
久しぶりの先輩呼びに、みんなで笑った。
震える手で携帯を持つ紗江子が可愛かった。そして場所を伝えている。少なくともすぐに電話に出てくれるじゃないかと和紗が囁いた。
「紅葉は、どんな素敵な贈り物をしてくれた?」
泣き崩れてしまった紗江子が落ち着いた頃を見計らって、声をかける。
「どうせなら、みんなで泊まって明日は自分と紅葉を見ようって」
いい人じゃん。
なら泊まるとこ探して連絡しよう、と歩き出す。何だかぶつぶつ言ってるなって思ったら、愛人も連れてきたらどうしようとか。
本当に好きなんだね。
「和紗。紗江子使い物にならない。どっか探して」
そう言うと、分かってると早くも画面とにらめっこしてた――。
陽が落ちると、あっという間に暗闇が迫ってくる。灯りの少ない山ではあるが、半分より少し大きい月明りが辺りを幻想的に魅せていた。
空からの贈り物。
花音には、この空間に二人が在るということと心底から思えるのだった――。
【了】 著 作:紫 草