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そんなに頑張ることはないのだよ
そんなに無理することはないのだよ
もっと楽に息をしてごらん
もっと自由に生きてごらん
必要のないものは捨てたらいい
きっと神さまも許してくださる――
そんなに無理することはないのだよ
もっと楽に息をしてごらん
もっと自由に生きてごらん
必要のないものは捨てたらいい
きっと神さまも許してくださる――
『化ける』
結婚して五年。
最初から同居の話は上がっていた。今思えば、どうしてそんなに結婚したかったんだろう。
同じ頃、結婚した友人たちは今も新婚の雰囲気を保っているというのに、私ときたら生活に疲れた老婆のよう。
子どもができてしまったからだろうか。
家族の住む同じ敷地にある小さな離れに住むことになり、とりあえず同居は免れた。でも毎日、監視されるような感覚に怯え、完璧な家事をしなければと疲れ果てた。
あれほど結婚したいと思った夫は、週の半分は母屋に行って食事をして帰る。電話では一緒に食べようと言われるが、行っても楽しい空間ではない。
家族とは何だろう。時にそんな思いに囚われる。
生まれた子は男の子で跡取り息子だと喜ばれた。毎日のように母屋へ連れていき、やがてその子は帰らなくなった。
大変だろうから自分たちの手がある時は手伝ってあげる、という言葉に騙され、そのまま全てに姑の手が関わった。
三年前に産んだのは女の子で、役に立たない娘は手元にいる。
可愛いね、と言われたらそうだろうと思う。
でも、どうしても比べてしまうのだ。綺麗に着飾った友人の子と。舅姑に取られた裕福な暮らしの息子の姿と。
ろくに着替えもない娘は、色褪せた古着を数点と何が描かれているかも分からなくなった靴が一足あるだけだ。
お金がないということが、どれほど惨めになるかということを初めて知った。働いたことのない私には分からなかった。
友人に冗談めかして言ってみると、実家に帰ったらいいのにと言う。どうやらみんなは毎週帰っているらしい。
しかし、私には帰る実家がない。兄夫婦と同居している父に、どんな愚痴を言えばいいのか。孫と一緒に買い物に行ったり塾の送り迎えをしている父に、私の苦労や寂しさが分かる筈はない。
母がいてくれたら…
どうして母は出ていってしまったのだろう。小さな頃は通ってくれる家政婦を母だと思い込んでいた。食事の支度と掃除とそして買い物も、家のことを全部する人を母と呼ぶのだと思っていた。本当の母がいないのだと知ったのは、近所の小母さんが教えてくれたから。父に確かめることはなかった。
六歳違いの兄が高校生になった時、母親が違うと知る。深夜、父と兄の話が聞こえてきた。
『おかあさんが、お前に会いたがっているぞ』
思わず、襖を開け私も会いたいと叫ぶように告げていた。しかし驚きながらも黙って首を横に振る。父は何も言ってはくれなかった。教えてくれたのは兄だった。
『みづちのお母さんと俺のお母さんは違う人だよ。お母さんが会いたいって言うのは、俺だけだ』
絶望という言葉を知ったのは、小学四年の春だった――
助けて欲しい時に、無条件で差し伸べられる手というものを私は知らない。
だからだろうか。
私には時折、善(よ)からぬ心の聲がする。
最近の私は、この聲がよく聞こえる。
何もかも放り出して、自分の人生をただ生きてみたい。夫の顔すら最近ではちゃんと見ていない。どのくらい時間が経ったのかも分からなくなる。
遠くで蝉が鳴いている。
ミンミン、ミンミン煩いことだ……
娘が来年幼稚園に入ったら、私にも時間ができると思っていた。それまで我慢をすればいいのだと耐えていた。
違うと知ったのは、昨夜だ。
義父が設計図が出来上がったと届けにきたのだ。何の設計図かと尋ねたら、母屋と離れを壊し小姑を含めた三世帯住宅のそれだと分かった。
「いつの話ですか」
義父は、来週には取り壊しが始まると残し去った。
帰宅した夫に、まず設計図を渡す。出てきた言葉は、もう出来上がったんだというものだった。
「何も聞いてないけれど」
「何を言ってる。みんなで決めたろ。忘れっぽいのにも程がある」
怒っているのは私なのに、逆に少し責められた。
「知らない。どうして家を壊すの」
「もう古いからだって言ったろ。それに同居すれば旭とも一緒に暮らせる。もっと甘えろよ」
旭……
もう何年も話していない我が子。可愛いなんて思ったこともない、義母の操り人形。
別居したい、という言葉が声になることはなかった。
「風呂湧いてる? 碧は入れたか」
「まだ」
「じゃ、入れてくるよ」
娘を抱いて夫が浴室へと向かう。その背中を見送りながら、ため息をつく。
三世帯住宅。
もうどこにも逃げ場がない借りの宿のようなものかな――
あ。まただ。
あの聲が聞こえる。
こういうのって二重人格っていうのかな。入れ替わっているわけじゃないけれど、どこか変になってるのは分かる。いつか自分の知らない時間が生まれたら、きっと別のワタシが現れる――
少し離れた場所に、大きな池が在る。
小さな子どもを連れていると必ず、危ないから近くで遊ばないように、近づかないようにと教えて歩く。
でも私は言ったことがない。つい最近まで、ここが危険な場所なのだと知らなかった。それを教えてくれる人がいなかった。
だから、此処は私の安らぎの場所だ。誰も来ない、静かなところ。大人になって隠れ家と呼ぶようになった壊れそうな東屋に何度も足を運ぶ。碧も一緒に。あの子も怖がらない。誰もが怖がるその場所で碧は無邪気に遊んでる。
よく考えると、池に行った日は必ずあの聲が聞こえる夢を見る。昔、兄が言った言葉を思い出す。
『みづちは、四つ池で拾われた子どもなんだよ』
それを初めて聞いた時、私は泣けなかった。拾われた子と言われた方が当然という気がしていた。兄の方が狼狽えて、冗談だと何度も繰り返し泣きながら頭を撫でてくれたことを憶えている――
もう何年も化粧をしたことがない。
久しぶりに化粧をしようと思ったら、何も持っていないことに気付く。いつから持ってなかったのだろう。
夫に化粧品を買いたいと言うと好きなものを買ったらいいとお金をくれた。ついでに洋服も買ってきたらと言い、碧は見てると母屋へ出ていった。
夫は優しいのだろう。
私が辛いと言えば子どもの世話をしてくれる。仕事の時間なら姑に頼んでくれる。
いろいろなことをすぐに忘れてしまうし、大事だと分かっていることもできないことが多い。どうしてこうなんだろう。ちゃんとしなきゃいけないのに。ちゃんとやらなきゃいけないのに。なのに、私にはできない。
蝉の聲がする。
何処かから、ワタシを呼ぶ聲がする――
買い物に行く途中、四つ池の前を通った。
すると白日夢のように聲がする。
自由におなり
お前はもう充分やったよ
還っておいで
お前はもう充分やったよ
還っておいで
その聲を聴きながら、ふらふらと池の方へ歩いて行った。
完璧な家事も子育ても、何もかも疲れていた。でも、それが辛いんじゃない。
本当に辛いのは、誰も私を見ていないこと。誰も私と真剣につきあおうとは思ってくれない。やがて子どもたちも大きくなる。そうなったら私はどうなるのだろう。
人の世は辛かろう
もう戻ってきていいのだよ
お前の生きる世界は其処じゃない
もう戻ってきていいのだよ
お前の生きる世界は其処じゃない
歩みは止まらない。
池の中央へ、足を運ぶ。
池というからには底が在る筈なのに、何処までも何処までも沈んでゆく――。
* * * * *
数日後。
みづちの財布を入れたポーチが池の畔で発見され、池を捜索されたが彼女の姿は見つけられなかった。
さらに数週間後、みづちの父親が訪ねてきた。
「秀君、すまない」
義父の言葉は謝罪から始まった。そして彼女は化けたのだと言う。
「化けた?」
「あの子は、この世の者でない母を持つ子なんだよ」
みづちは水の世界の霊から、化身した母を持つ娘だと義父は話した。
人じゃないって……
それを彼奴はうすうす感じていたよ。怖いって、何処かに連れ去られるような気がするって。
どうしてそんな名をつけたんだ。蛟の名をそのまま残しているじゃないか。
「許してくれ。真実を知らなければ、水の世に還ることはないと思い込んでいたんだ」
口数の少ない人だと思っていたが、そうじゃなかったようだ。
みづちは母親のいないことをひどく寂しいと話していた。それなのに、彼女自身が母のない幼子を二人も残して往ってしまった――。
【了】 著 作:紫 草