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『寒くないか』
項に感じる男の掌を、花音はその熱さと共にとても愛おしいと想う――
「やっぱり彼、いいよね~」
隣の席から、椅子ごと近づいてきて同僚の紗江子が言う。
彼、とは今年異動になってこの部に配属になった三枝和紗だ。
「いいよねって。紗江子、つきあってる人いるじゃない」
パソコンの画面から目を離さずに告げた。
すると彼女は更に近づいてきて、小声で言う。
「あれはキープ。だって三枝君の方が断然いい男じゃない。花音、手貸してよね」
彼女は言うだけ言って、あっさりと自分の席に戻っていった。
相変わらず滅茶苦茶なことを言う女だ。
何が手を貸せよ。
花音は一瞬、紗江子を見てまた画面に視線を戻す。
紗江子、と呼びかけ、彼女が反応したことを確認して言った。
「貸せない」
花音の言葉に、紗江子はひどく驚いているようだった。
それはそうだろう。これまで幾度となく、貸してきた手だ。今回に限り貸せないというのも珍しいと思ったのかもしれない。
だが、入社当時から五年に至る今日まで、延々と続く男漁りにいい加減嫌気がさしていた。
次は絶対に断ろう、と決めた。
そのタイミングが、今日だっただけ。
「どうして? 合コンしようよ。協力してよ」
花音は男連れてくるの上手だからお願い、と彼女は小さく手を合わせる。
馬鹿馬鹿しくなって仕事に戻る。
目の前に座る三枝和紗の顔を、頭から追い出す為に軽く頭を振って気持ちを切り替えた。
ポン
小さな音がしてメールが届いたことを教えてくれる。
開く前にタイトルから三枝和紗からだと分かる。
花音が視線を向けると、彼が素早くウィンクするのが見えた。こういう態度が人気のある所以らしい。
―合コン、いいよ。ちゃんと花音も来てくれるならね―
そのメールをゴミ箱に捨て、返信を打つ。
―莫迦言ってないで、仕事をして下さい。
それを送信した直後、お昼休みの為席を立った。
三枝和紗も席を立つ。その気配を背後で感じ、そのまま部屋を出た。
きっと紗江子に捕まるだろう。
彼は優しい。誰の話も聞いてくれる、と専らの評判だ。
お酒の飲み方も綺麗で、お金払いも豪快らしい。
ただ彼には秘密がある。
私にも秘密がある。
私たちは、会社を離れると男と女になる…
近くのオープンカフェでランチをとっていると、思いがけず和紗がやって来た。
「紗江子に捕まったとばかり思ってた」
目の前に座る彼に、そう声をかける。
まぁね、と言いながら、軽くかわしてきたと言う。
「あの紗江子から逃れるなんて、たいしたものだね」
花音の前に運ばれたパスタが湯気をたてている。
『それ、うまそだね。ちょっと頂戴』
聞きながら、左手を彼の口に運ばれる。
フォークに丸めたパスタは彼の口の中に消えた。
どきっとした。
色っぽい。
ソースのついた唇を舐める仕草も、口の端を左手の親指で拭う仕草も、そして旨いと見せる笑顔でさえも。
お昼を済ませ、仕事に戻ると再び紗江子が近づいてくる。
「三枝君からOKもらったよ。今度の週末、合コンだからね。花音も絶対にくること」
ちょっと待ってよ。
何勝手なことを言ってるのよ。
花音はそう言おうと思った。
でも言えなかった。今度は紗江子がお昼休みで席を離れたから。
今、すぐに言わなければ、了解したことになってしまう。今回は行きたくない。そう思っていた。
彼女が戻ってきて、告げた言葉を聞くまでは。
「そうだ。私、三枝君とフケるから、あとお願いね」
幹事は紗江子でしょ。
何を間違ったものか。行かないと意思表示するつもりが、これでは行くととられても仕方がない。紗江子は何でも自分の都合のいいようにとるから。
ポン
―合コンだって。花音も来いよ。で、二人で抜け出そうな―
返信。
―紗江子から、和紗とフケるからってあとを頼まれた。
ポン
―ちょうどいいじゃん。代わりに花音が抜ければ片がつく。そろそろ、みんなに言ってもいいんじゃない?―
花音は黙ってしまう。
みんなに知られるのは怖い。自分のためではなく、彼の将来には同僚の、しかも年上の女とつきあっているのを知られるのはいいこととは思えない。
だからといって、紗江子の毒牙にかかるのを黙って見ているのも嫌だ。
返信。
―分かった。
もしも今回のことが原因で会社を辞めなければならなくなっても、和紗と別れることになってしまっても仕方がない。
花音は目の前に座る和紗の顔を見た。
そして思うのだ。
何があっても、自分はこの男を守ってみせるのだと――。
【了】 著 作:紫 草