ミュウタントのブログ

日本国憲法第9条は地球人類の宝、それを改悪するための日本国憲法第96条の改正に反対!

東京厚生年金会館ウェルシア出開かれたコンサートをプロデュースした北山修さんのコメント

2009-10-20 19:27:00 | インポート
 歌が愛の歌であり、人生を歌うことはよくありますが、同時に歌が社会問題と密接に関わった時代がありました。「イムジン河」という曲も、また、そういう時代の子でした。
当時、京都のフォークグループであったザ・フォーク・クルセダーズ(通称「フォークル」)が1966 年頃から歌っていたこの曲は、フォークルの友人・松山猛が教えてくれたものでした。その名で「民謡の十字軍」を意味したザ・フォーク・クルセダーズは、世界中の民謡を歌おうという思いで、これを取り上げたわけで、当初はこれを朝鮮半島の悲劇を歌う民謡だと思いこんでいたのです。つまり、漠然とですが、多くの民謡やフォークソングのように、加藤和彦が採譜したメロディはもともと作者が不詳で、南北に分断された国のことを描写した歌詞はその頃新たにつけられたものだと思っていました。だから、歌詞の意味を少し変えることの自由、メロディも少しは違っていてもいい、という余裕のようなものがそこに実現していたように思うのです。
ところが、「帰って来たヨッパライ」のヒットの後、これがレコーディングされ、フォークルの第二弾として発売されることになって、この曲に作者がおられることが判明したのです。それも、発売の数日前で、すでに曲は深夜放送などで話題になっていました。オリジナルの曲は、南の地へ北の様子を伝えようとする内容でしたが、松山の自由と平和を求める歌詞は、南北の分断をめぐる思いを訴えるものへと変わっていたのです。それでレコード会社は、これが朝鮮民主主義人民共和国の歌であることや作詞作曲者名を明記すること、原詞に忠実に訳すことを求められました。レコード会社は国交のない国の名前を出すことに躊躇し、親会社のビジネスに影響することを恐れたため、 発売を中止にしたと聞いています。彼らは不自由だったと思います。
一方でフォークルは、入れ替わりに生まれた「悲しくてやりきれない」を発表し、それが救いとなって活動をしばらく続けましたが、この事件の半年後解散しました。しかし、「イムジン河」は、発売中止になったからこそ、強く人の心に残ったようです。ザ・フォーク・クルセダーズそのものもそうだと思います。長くやらないで一年足らずで止めてしまったことが、人びとのさらなる関心の高まりにつながったのでしょう。
その後、多くの人の発売に向けた働きかけにもかかわらず、発売中止の状態は長く続きました。が、2002 年春、34 年ぶりにようやく発売され、今では、録音されたものは自由に手に入るようになりました。また、誰のものでもなくなった「イムジン河」は、誰にでも、どこででも歌えるという自由を与えられたようです。その結果、現在、フォークルの「イムジン河」は「松山 猛 訳詞、朴 世永 作詞、加藤 和彦 編曲、高 宗漢 作曲」となっていますが、その他に、思いつくだけでも、1968 年ザ・フォーシュリーク版「リムジン江」、2001年NHK 紅白歌合戦のキム・ヨンジャ版「イムジン河」、そして2002 年フォークルが新たな歌詞をつけた「イムジン河 ~春~」などが、それぞれ装いも新たに、独自の歌い方で、そして新しい歌詞で歌われています。さらに今では、この日本語版のフランス語訳、英語訳、そして、新たなハングル語訳まで登場し、それぞれ歌われているのです。こんなことは、日本でしか、そしてこの曲でしか、ありえない展開でありましょう。
40 年前フォークルが関西から初めて東京に来て、これを日比谷野外音楽堂で歌った時、私は「もし関西と東京に国が分かれていたら、この曲は歌えなかった」と言ったのです。そして、2002 年に「イムジン河とは、誰の心の中にも、あるいは人と人の間にも、どこの国と国の間にも、流れています」と語りました。
この曲はあちこちに流れる「河」をこえ、これからも無限に広がり、長く流れてゆくでしょう。だからこそ今年の8 月は、友人たちの力を得て、色んな「イムジン河」を同じステージに集め一度にまとめて聞いてみたい、そしてそれらを一曲にまとめて流してみたいと思うのです。そしたら、この国でしか味わえない、この曲の本質である、あの熱い自由と愛を、また深く味わえるのでは、と今から期待しているのです。そして当日は、この「イムジン河」が加わったら、ちょっと長めのアンコールで登場するはずの、他のフォークルの作品や「あの素晴しい愛をもう一度」も、よりその意味が胸にしみるはずです。

    きたやまおさむ

このコンサートは昨年の8月だった。

べったら漬け

2009-10-20 18:55:00 | インポート
 同じ大根の沢庵漬けとも違うし、楢漬とも違う。
 干さずに生の大根を軽く塩漬けして、麹と甘酒に漬けたもので、べたべたすることからべったら漬けになったとか。
 日本橋界隈で、人形町界隈でべったら市が開かれている。19,20,21日恵比寿講に合わせてべったら市が街をにぎわす。
 手に入ったので、今日早速食べることにした。

北山修さんの追悼文

2009-10-20 16:16:00 | インポート
 加藤和彦さんの自殺について、19日の朝日新聞に、北山修さんが追悼文を寄せていた。

 加藤和彦さんを評して、「趣味は一流、生き方も一流だった。ギタープレーヤーとしても一流で、プレーヤーすなわち「遊び手」としても一流。グルメであり、ワインに詳しく、ソムリエの資格をとるほどで、何をやらしても天才の名に値するレベルだった」と。

最後の一文に注目したい。
「昔話に花を咲かせ共に老後を過ごすことを楽しみにしていた仲間として、そしてこれを食い止めねばならなかった医師として、友人としては、実に無念である」。

 遺書を残したり、数日前から「死にたい」と漏らしたり、愛用のギターを友人に渡していたことから、「覚悟の」自殺だと報道するものもある。

 たしかに、彼の行動を表面的にみれば、整然と計画的に死に向かって準備を整えていたといえるだろう。
 しかし友人の北山修さんによれば、「食い止めなければならなかった」ものだと指摘していた。
 北山修さんは、精神科医だから、彼のコメントは、知っていたらと言うことなのだろう。

 加藤和彦さんが、うつ病であったことを如実に指摘しているものと考えるべきだろう。
 そうだとすれば、「覚悟」の自殺をさせたのは、ほかならぬ「うつ病」の症状に影響を受けた彼の「こころ」がそうさせた。ここに至るまで、最近うつ状態で仕事がはかどらないともらしていたという。

 そうなのだ、加藤和彦さんの周りに彼のサインを見逃さず、精神科医への受診を勧める人がいなかったことが、悔やまれる。北山修さんの顔が思い浮かばなかったのかなあ。

 追悼文全文
 
 もはや、あの人懐っこい笑顔が見られないかと思うと本当に心が痛む。それにしても、やられた。すべて計算ずくだったと思う。ワイドショー的なマスコミ報道の減る週末を選んだのも、あいつ一流の作戦だったのだろう。
 彼は「振り返る」のが大嫌いだったが、大した戦績だったので、嫌われるのを承知で書こう。私は、一時期同じバンドのメンバーにして、楽曲を作る仲間、そして人生の良きライバルだった。それで故人を呼び捨てにするが、お許しいただきたい。今から数十年前のこと、その加藤がこう言ったことがある。
 「お前は目の前のものを適当に食べるけど、僕は世界で一番おいしいケーキがあるなら、全財産はたいてもどこへだって飛んでいく」
 趣味は一流、生き方も一流だった。ギタープレーヤーとしても一流で、プレーヤーすなわち「遊び手」としても一流。グルメであり、ワインに詳しく、ソムリエの資格をとるほどで、何をやらしても天才の名に値するレベルだった。
 それがゆえに、凡百とのおつきあいの世界は、実に生きにくいものだっただろう。しかし私たちには、そんな背の高い天才の肩の上に乗ったら、見たことない景色が遥か遠くまで見えた。
 加藤和彦が日本の音楽にもたらしたもの、それは「革命」だった。作品だけではなく、彼の生き方ややり方が新しかった。六〇年代、若者の革命が幾つも夢想される中、ほとんど何も持たない若いプレーヤーたちが芸能界のエスタブリッシュメントに挑んだのだ。はっきり言って、私たちは、アマチュアで、関西にいて、大した機会に恵まれなかった。そして振り返るなら、多くの、「若者の戦い」の中で、あの音楽の戦いだけは一瞬成功したかに見えたし、クリエーター加藤和彦は、このプレーヤーたちの戦いの旗手となった。
 自主制作の「帰ってきたヨッパライ」が300枚作られ、結果的に280万枚を売った半年で、日本の音楽の流れが大きく変わったのだ。大先生が作る作品を歌手が歌うという「上から下」の主流に、自作自演という「下から上」への波が音を立てて流れ込んだのである。その上、新興のシンガー・ソングライター・ブームに対し、加藤の志向は主にバンドにあり、フォークル、ミカバンド、最近では和幸と、ソロ中心に偏ることはなかった。私のようなセミプロを傍らに置いて、たててくれたのも、バンド志向の優しいリベラリズムであったと思う。
 後ろは振り返らない、そして同じことは絶対にやらないというモットーを貫き通した彼は、おいしいケーキを食べるために全財産をはたいて、また手のとどかぬところに飛んで行った。戦友としては、その前だけを見る戦いぶりに拍手を贈りたい。しかし、昔話に花を咲かせ共に老後を過ごすことを楽しみにしていた仲間として、そしてこれを食い止めねばならなかった医師として、友人としては、実に無念である。
 
以上が朝日新聞19日朝刊の文化面に寄せられた追悼文だった。

 なぜという思いが又頭をもたげた。先頭を走ってきてもうやることが無くなったって、後から音楽を志すものたちが聞いたら怒り出すぜ、まったく。

 

皇后美智子さんの言葉でなくても

2009-10-20 10:55:14 | 戦争・平和
「国際社会に理解求めること必要」=被爆国の役割に言及-皇后さま、75歳に(時事通信) - goo ニュース日本はなぜ先頭に立たないのかという思いがあります。核廃絶に向けて、核兵器『原爆』を落とされた国として訴えてゆくべきです。

またかよ、SAMURAI BLUE

2009-10-20 10:08:00 | インポート
 岡田ジャパンの愛称が、決まった。又かよっていう感じです。まあ、以前から使われていたそうですけれど。

 サムライジャパンの時も書いたように、なぜ『サムライ』なのか。江戸期のサムライの人口比は、5~7%以下しかいなかったんだよ。

 あの葉隠れというほんは、だらしなくなった武士を嘆きながら、今を生きる武士のHOW TO 本だったのに、『武士は死ぬことと見つけたりといえども・・・』が言えどもが抜け落ちたんじゃないの、一人歩きしてる。武士なんて農民上がりの集団、野党の類が、平安期に都の警護、荘園の警備で伸してきて、平家、源氏に繋がる。
 戦国期の信長が平家だったから秀吉も其れに倣い、家康が源氏だというのだから笑える。
 サムライ=武士、大和魂と引っ付いて今に伝わる。
 私には苗字帯刀を許された先祖はいるにはいるが、私自身武士の記憶はないし、そんなものに固執する人たちの気持ちが分からない。日本の伝統だという人もいるが、ばかばかしい限りだ。

侍の江戸期の人口比は5~7%なのに

2009-10-20 09:14:22 | スポーツ
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岡田ジャパン新愛称発表!そのとき周囲はあ然…(スポーツニッポン) - goo ニュース侍って強いと思ってるのかな?関が原の合戦を見れば分かるように、徳川方に組した豊臣恩顧の大名達や裏切り者の小早川家なんて、早いうちにお家断絶の憂き目にあっているし、『葉隠れ』なんて今の世の武士のだらしなさをたしなめた本だよ。「武士は死ぬことと見つけたりといえども・・・」というふうに「いえども」が削られて今になぜか『侍』が伝わっている。おかしな話だよ。

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