△しばしば出会って来たアーロンだがエルサレムが最後になったー写真はヴェネチアにて。
・昭和44年1月14日(火)曇り時々雨(キブツを去り、エルサレムへ)
晴れていたら、死海へ再挑戦で行くつもりであったが、やはり天候が怪しく、断念した。イスラエルは雨季に入ったのか、ここ3日間、悪天候が続いた。
色々な思い出や体験が出来、そして多くの友達にも知り会えた。又私に対するキブツの持て成しは、同国人や色々な国の一時滞在者と変わりなく扱ってくれた。食事内容も良く、労働していると三度の食事がとても楽しみであった。そんな仲間達やキブツを去る事は本当に辛く、そして寂しい感じがした。しかし私は旅人であり、17日にイスラエルからイランへの航空予約をしてあるので、いつまでもここに居られなかった。
昼時、農作業から帰って来た仲間達に別れの挨拶をした。この時に仲間と住所交換した。又オランダ人のバートからは、「中近東、南西アジアは危険な地域だから護身用に」と言って、刃渡り20cmの登山用ナイフを貰った。彼等と共にキブツでの最後の昼食を取り、その後別れた。彼等は本当に良い人達であった。2・3日後に、バートやジョアン達もキブツを去ると言っていた。
色々な思い出や体験が出来、そして多くの友達にも知り会えた。又私に対するキブツの持て成しは、同国人や色々な国の一時滞在者と変わりなく扱ってくれた。食事内容も良く、労働していると三度の食事がとても楽しみであった。そんな仲間達やキブツを去る事は本当に辛く、そして寂しい感じがした。しかし私は旅人であり、17日にイスラエルからイランへの航空予約をしてあるので、いつまでもここに居られなかった。
昼時、農作業から帰って来た仲間達に別れの挨拶をした。この時に仲間と住所交換した。又オランダ人のバートからは、「中近東、南西アジアは危険な地域だから護身用に」と言って、刃渡り20cmの登山用ナイフを貰った。彼等と共にキブツでの最後の昼食を取り、その後別れた。彼等は本当に良い人達であった。2・3日後に、バートやジョアン達もキブツを去ると言っていた。
『残ったキブツの仲間達も寂しくなるなぁ。でも又新しい仲間が来るから、そうでもないのかな』とも思った。
キブツ管理事務所に寄って、予定通り本日でキブツを退去する旨、そしてハッゼリム・キブツの心ある持て成しに対し感謝し、キブツを去った。
キブツ管理事務所に寄って、予定通り本日でキブツを退去する旨、そしてハッゼリム・キブツの心ある持て成しに対し感謝し、キブツを去った。
「イスラエルに来た時、又ここのキブツに立ち寄って下さい」と管理人は言ってくれたが、再び来られる機会があるか、疑問であった。
キブツ前からヒッチして、エルサレムへ。ヒッチはとてもイージーで、難なくエルサレムに到着した。
キブツ前からヒッチして、エルサレムへ。ヒッチはとてもイージーで、難なくエルサレムに到着した。
ユースに宿泊したらその夜、あのアーロンが談話室に居た。
「ハィ、アーロン。又会いましたね」と言って彼の所へ。
「ハロー、Yoshi。元気で旅をしていますか。それにしても私達はよく巡り逢いますね」と彼も言って、我々は握手をして再会を喜び合った。
「一寸ビールを飲みに行こう」とアーロンが言うので、近くのレストランへ行った。レストランで2人の再会を祝し乾杯した。それから今までの旅の事、キブツの事等を話した。
「これからイランへ行く」と私。
「私は再びギリシャへ行きます」と彼は言った。
今まで4回も再会出来たのは、同じルートを我々は旅をしていたからであった。しかし、これでルートは完全に左右に分かれるので、再びアーロンと出会う事はあるまいと思った。
そもそも彼と最初に会ったのが、ヴェネチアのユースであった。翌日、我々は鈴木と共に市内観光をした。2度目はアテネのユースで、3度目はクリスマス・イヴのベツレヘムの混雑したテント小屋の酒場兼食堂で、そして今回で4度目の再会となった。彼は明日、早めにテルアビブへ行くと言う事であった。我々は旅の無事を祈って再び乾杯した。私はこちら(外国)に来てから、多くの旅人と出会い、そして別れて来た。『旅とは、つくづく出会いであり、そして、別れである』と実感した。エルサレムの夜は、静かに過ぎて行った。
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