・昭和44年1月12日(日)曇り(最後の農作業と小田君からの手紙)
7時にボンに起こされ、彼と食堂へ行った。朝食はいつもと変わらなかったが、朝から卵、野菜サラダ、ヨーグルトや果物が食べられ、私にとって贅沢であった。
私のジャガイモ収穫農作業は、今日で最後となった。風があったので、顔中が泥埃だらけになってしまった。ここ何日間は晴れていても以前より暖かくなく、裸になれなかった。段々と寒くなって来たようだ。4時に一日の作業、そして私のキブツの仕事も終り、ホッとした。いつもの様に食堂からオレンジを貰って部屋で食べた。そして昨年の12月23日にキブツから支給された残りのブランディーを全部飲んでから、シャワーを浴びた。
それにしても、今日は落ち着かない日であった。『去る』と言う事は、いつもながら寂しさと、今後の旅の不安を感じた。
今日、妹の手紙と共に船で横浜からナホトカへ行った時の同部屋の1人、小田君の手紙が同封されて来た。元気でいるとの事で、人事(ひとごと)ながら安心した。彼は200ドル持っただけで、ヨーロッパへ行くと言っていた。詳しくは、『第2章ソ連の旅の船旅』で書きました。その時、彼の勇気、行動力に私は羨ましさを感じた。
7時にボンに起こされ、彼と食堂へ行った。朝食はいつもと変わらなかったが、朝から卵、野菜サラダ、ヨーグルトや果物が食べられ、私にとって贅沢であった。
私のジャガイモ収穫農作業は、今日で最後となった。風があったので、顔中が泥埃だらけになってしまった。ここ何日間は晴れていても以前より暖かくなく、裸になれなかった。段々と寒くなって来たようだ。4時に一日の作業、そして私のキブツの仕事も終り、ホッとした。いつもの様に食堂からオレンジを貰って部屋で食べた。そして昨年の12月23日にキブツから支給された残りのブランディーを全部飲んでから、シャワーを浴びた。
それにしても、今日は落ち着かない日であった。『去る』と言う事は、いつもながら寂しさと、今後の旅の不安を感じた。
今日、妹の手紙と共に船で横浜からナホトカへ行った時の同部屋の1人、小田君の手紙が同封されて来た。元気でいるとの事で、人事(ひとごと)ながら安心した。彼は200ドル持っただけで、ヨーロッパへ行くと言っていた。詳しくは、『第2章ソ連の旅の船旅』で書きました。その時、彼の勇気、行動力に私は羨ましさを感じた。
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