YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

老兵が日本女性の思い出を語る~オーストラリア大陸横断ヒッチの旅

2022-03-26 15:13:03 | 「YOSHIの果てしない旅」 第11章 オーストラリアの旅
・昭和44年4月2日(水)晴れ(老兵が日本女性の思い出を語る)
 毎日良く晴れて、本当に助かる。ここまで来ると日差しは、秋であった。そして朝晩は涼しくなって、それなりに着ていても野宿は寒さを感じた。
昨夜は久し振りにベッドで横になれたのに、返って良く寝られなかった。むしろ狭い車の中の方が寝られる様になっているとは、不思議なものだ。
 ヒッチは早発ちの方が良いであろうと、6時に起きた。奥さんもご主人もまだ寝ていたので、起こさなかった。申し訳ないが、勝手に朝食兼昼食用のパンをいただき、感謝の置手紙を書き、スコット家を後にした。後から考えたらもう少しゆっくり起きて、奥さんの作った朝食を済ませ、感謝の言葉を述べ、そしてゆっくり出立すれば良かったと後悔した。如何してこうも先を急ぎすぎているのであろうか。カンガルー狩りの誘いがあった時も感じた事だが、今回のオーストラリア横断の旅は、ゆったりとしたヒッチの旅でなかった。今回、単なる移動になってしまったのだ。訳は分っていた。私の滞在期間は短いので、『早くシドニーへ行って、早く仕事を見つけ、滞在期間を延長してもらう』、その一念の思いが心のゆとりをなくしていた。2時間、3時間、或は2日、3日遅れて着いたとしても、余り変わらないと思うのだが、大陸横断中の私の心情はそうでなかった。
 チャールヴィルの町外れでヒッチを開始した。1台目はトヨタの小型トラックが停まってくれた。ドライバーは、「Cunnamulla(カナマラ)まで行くが途中、仕事で何回か立ち寄るが、それで良いなら乗せるぞ。」と条件付で言った。「それでも結構です。」と私は言って乗った。それから間もなくして車が止まり、「そこまで仕事でチョッと行って来るから、ここで下りてヒッチしていて良いぞ。もしヒッチ出来なければ、又ピックアップしてやるから。」と彼は言って、車から離れて行った。でもこの時は、直ぐに戻って来た。そんな事をちょくちょく(3回)繰り返し、4回目は30分過ぎても戻って来なかった。こんな事を繰り返されては先へ進まない、と思った。間もなく大型トラックがやって来た。2台目はそのトラックに乗せて貰い、私はカナマラまで遣って来た。
そして3台目の車は、カナマラからBourke(バーク)まで、羊を載せた大型車で遣って来た。チャールヴィル~バーク間は結構凸凹の道で、クロンカリー~ウィットン間の砂漠の道以外、一番悪い道であった。
 バークの町をぶらついていたら、何人かの人から「この町に日本人が住んでいる。」と聞かされた。彼の事を「グッドガイ。」、或は、「八百屋をしている。」と言うので、居場所を聞き彼の所へ行って見る事にした。こんな田舎町に住んでいる日本人はどんな方であろうか、どんな暮らしをしているのであろうか、八百屋と言うが商売は如何なのであろうか、と私は色々考えた。
尋ねてビックリした。通りの裏手の方に空き地があり、彼は掘っ立て小屋を建て、そこに住んでいた。どう見ても八百屋を営んでいる店構えではなかった。
「こんにちは。私は日本人のYoshiと申します。今日この町に来て、日本人である貴方の事を聞き、尋ねて来ました。」と彼の家の前で、自己紹介と尋ねた理由を述べた。しかし30~35歳位の彼は、下を向き「・・・」と無口で、一言も言葉を発しなかった。小屋の中は家具らしき物、生活感が無く、そして八百屋をしている、と言うそれらしさが全く無かった。それとも彼は、他の場所で八百屋をしているのか、私は分らなかった。彼の着ている物は、擦り切れていて、乞食の様な感じであった。そんな事で、彼は日本人の私と会う事も、話をするのも嫌な様であった。私は彼の境遇を悟り、これ以上ここに居ては彼に悪いと思い、早々そこから立ち退いた。ともあれ、彼は確かに日本人であると感じた。何か罪を犯し、逃亡生活の果てにあの様になってしまったのであろう、とそんな感じがした。常識的に考えて普通の人で働くなら、条件としてシドニーの様な大都会の方が有利だと思った。
 さて、今夜は何処で一晩過ごそうか、とそろそろ思案する時刻であった。そして〝適当な宿泊場所〟(何処の町でも、ちょっとした所に廃車になった車が放置してあり、その車の中が私の宿泊部屋)の目星を付けてから、パブへ行った。金が無い割に大陸横断ヒッチ中、ビールだけは何故か毎日飲んでいた。ここのビールは、安く飲めるので有り難かった。インドは他の物価と比較してビールはべら棒に高かった。安くても小瓶3ルピー(145円)、中国レストランでは小瓶5ルピー(240円)であった。こちらのパブは小ジョッキ12セント(48円)、大ジョッキ32セント(128円)であった。こちらはビールに酒税が含まれてないようだ。
 パブには何人かの男達が飲んでいた。パブの主人(バーテン)は、私が日本人だと知ると、「朝鮮戦争の時に日本に立ち寄った事があるよ。」と話し掛けて来た。それを聞いた私の右隣のカウンターで飲んでいたオッサンが、「第2次大戦直後、広島や東京を訪れた事があったが、日本は汚くて何でも酷かったよ、ノー・グッド・カントリーね。But、一晩1ドルで〝女〟(当時は「パンスケ」又は「パンパンガール」と呼ばれていた女性が大勢いた。)が買えたよ。チープでグッド・ファックだったよ。」と言い出した。奥の席で飲んでいた30歳位の男がそれを聞いて、「Then, I want to fuck with Japanese girls. How much is it now? 」と私に聞いてきた。
昔(彼等の年代とってはまだ昔ではないのだ。)の日本や日本女性対する屈辱的な事を聞かされた私は、「Shut up!! We can’t fuck any more with money according to the law in Japan. And now, 日本は立派に立ち直り、経済・技術面で今、欧米と肩を並べる様になったのだ。しかも日本はオーストラリアから羊毛を始め、鉄鉱石等を輸入し、この国の経済の発展に寄与しているのだ。現在の日本の事をもっと知ってくれ。」とその2人の男に怒った様な口調で訴えた。
私の左横辺りに座っていた少しほろ酔い気分のオッサンが、「まあー若いの、そんなにいきりなさんな。一杯御馳走するから勘弁してやれ。」とこんな調子で宥められてしまった。オッサンからビールを御馳走になり、暫らくしてからパブを出た。しかし如何もスッキリしないパブであった。人口の割に多数のオーストラリア人は第2次世界大戦、或は朝鮮戦争に連合軍の兵士として従軍していたのだ。
 今夜も車の中が私の宿泊所(これで5回)になった。
今日のヒッチ距離は295マイル(471km)。残り777-295=482マイル(771km)


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