・昭和43年12月12日(木)曇り後雨後曇り(キブツへ行く)
長倉はハイファへ旅立った。青山は、2・3日後に何処かのキブツに入ると言う。私もキブツへ行く為、ベエルシェバへヒッチで行く事にした。
ベエルシェバは、テルアビブから110キロ程行った所で、ハッゼリム キブツはその町からさらにネゲヴ砂漠へ10キロから20キロ位行った所であった。私の持っている道路地図には、「ハッゼリム」と言う地名は載っていなかった。
私は歩いて郊外へ出た。途中、基地へ行くのか、それとも軍服姿(多くは迷彩服)のまま職場へ行くのか、自動小銃を肩から提げている多くの男女の兵士を見掛けた。
街の中央では見掛けなかったが、郊外へ出ると古い家並みが沢山あった。そこはアラブの雰囲気が感じられ、パレスチナ人達が住んでいた。町の片隅にひっそりと暮らしている彼等は、スッカリ立場が逆になってしまった様であった。「そうか、そうだったのか」。テルアビブはユダヤ人上陸地、入植地として、そしてイスラエル建国の新しい街作りとしてここを首都としたが、古くから街が現存していたのだ。新しく出来た地域はイスラエル人の為の居住地区、そして従来の地区は、パレスチナ人の居住区として分離されていたのだ。私は複雑な国家形態を見た。
私は歩いて郊外へ出た。途中、基地へ行くのか、それとも軍服姿(多くは迷彩服)のまま職場へ行くのか、自動小銃を肩から提げている多くの男女の兵士を見掛けた。
街の中央では見掛けなかったが、郊外へ出ると古い家並みが沢山あった。そこはアラブの雰囲気が感じられ、パレスチナ人達が住んでいた。町の片隅にひっそりと暮らしている彼等は、スッカリ立場が逆になってしまった様であった。「そうか、そうだったのか」。テルアビブはユダヤ人上陸地、入植地として、そしてイスラエル建国の新しい街作りとしてここを首都としたが、古くから街が現存していたのだ。新しく出来た地域はイスラエル人の為の居住地区、そして従来の地区は、パレスチナ人の居住区として分離されていたのだ。私は複雑な国家形態を見た。
私が郊外へ出てヒッチをしていると、中年男性が寄って来て、「何処まで行くのか」と聞かれた。私は、「ベエルシェバまでヒッチで行くのです」と言ったら、彼は1ポンド札(86円)を私に手渡し、「これで行け」と言って素早く立ち去って行った。私は呆気にとらわれてしまったが、何だか知らないが今回は貰っておく事にした。乗合タクシー(シェルート)で100キロを1ポンド払えばそこまで行けるのか。シェルートは勿論、バスでも行けそうもない感じがした。だが、後日キブツ滞在中のある日、死海へ行こうとベエルシェバの郊外でヒッチしていたら、近寄って来た男性から行き先を聞かれ、「それならこれで行け」と言って2ポンド渡された事があった。そうなのか、1ポンド2ポンドあればかなりの距離を乗合タクシーのシェルートで行けるらしい事が分った。そうするとイスラエルに初めて来た日、テルアビブ郊外からテルアビブまでシェルートに乗って5ポンド払ったのは、やはり『ぼられた』のだ。悔しい気分が新たに湧いて来た。しかし、イスラエル人はぼる人もいれば、向こうから近づいて来て、「これで行け」とお金を渡してくれる人もいる。私は単細胞なので差し引き、『イスラエル人は良い人』と言う印象を持った。
テルアビブからヒッチは意外と簡単で、直ぐトラックが止まってくれた。何の変哲もない風景が続いた。ベエルシェバが近くになるにつれて、大地が乾いて来た(土漠、砂漠化)感じがして来た。ベエルシェバの町は、イスラエル人用に新しい団地群を遂次建設中であった。それに反して、レンガや泥で出来た貧弱な家々には、パレスチナ人が住んでいた。街の様相は、新旧はっきり分かれていた。ドライバーに、「ベエルシェバは新しい町ですね」と言ったら、彼は「新しい町ではない、20年も経っている」と言った。無理もないと思う。イスラエルが建国して既に20年経っているのである。20年の感覚の捉え方であった。
トラックのドライバーとベエルシェバの郊外の交差点で別れた。ハッゼリム キブツ方面の道は真っ直ぐ伸びていたが、車は走っていなかった。周りの状況は草木も生えてない土獏の光景、そして何も聞こえない静寂な世界がそこにあった。トボトボ歩いていたら、向こうから車が停まってくれた。そして私が黙っていたにも拘らず、ドライバーはキブツ前で降ろしてくれた。彼は私がキブツに入所するのを知っていたかの様で、全く不思議であった。乗った時間は20分程度であったであろうか。ハッゼリム キブツはベエルシェバからそんなに遠くなかった。
ゲートを通ると直ぐ管理事務所があった。管理人達は快く私を向かい入れてくれた。入所手続きを済ませると、管理人1人が銃を担いで私を部屋まで案内してくれた。キブツ敷地内には幾つかの共用建物(食堂、集会所、娯楽室、図書室、生活用品ストック及び配給所等)と共に、多くのこぢんまりとした家(10畳から20畳程度の広さの家)が沢山あり、そこは我々ゲスト用やユダヤ人用の家族単位で住める住まいであった。そして敷地内は良く整っていて、庭園もあった。アスハルトの歩道を事務所から10分程歩いてやっと私の家に着いた。数ある家の中で私の家(時には「部屋」「ハウス」とも言う)は一番奥、ベッドが3つ備えられ、広さが10畳程であった。
一番奥(奥付近のこの一帯はゲスト ハウス、所謂一時滞在者用専用の家)は、食堂を始め、幾つかある施設へ一番遠いのであった。一時的滞在者用では、仕方ないのであった。私の部屋には既に先客2人(北アイルランド人のフランク、ノルウェー人のピーター)が住んでいて、3人で住む事になった。部屋と言っても台所、トイレ、浴室は無かった。あるのは毛布1枚とベッドだけであった。毛布1枚では寒そうなので、管理人にもう1枚お願いしたら、「用意しますから明日、生活関連施設へ取りに行って下さい」と言ってくれた。他のハウスに住んでいるエンディ、バート、そして他のキブツ一時滞在者の仲間達からも快く私を迎え入れてくれた。
テルアビブからヒッチは意外と簡単で、直ぐトラックが止まってくれた。何の変哲もない風景が続いた。ベエルシェバが近くになるにつれて、大地が乾いて来た(土漠、砂漠化)感じがして来た。ベエルシェバの町は、イスラエル人用に新しい団地群を遂次建設中であった。それに反して、レンガや泥で出来た貧弱な家々には、パレスチナ人が住んでいた。街の様相は、新旧はっきり分かれていた。ドライバーに、「ベエルシェバは新しい町ですね」と言ったら、彼は「新しい町ではない、20年も経っている」と言った。無理もないと思う。イスラエルが建国して既に20年経っているのである。20年の感覚の捉え方であった。
トラックのドライバーとベエルシェバの郊外の交差点で別れた。ハッゼリム キブツ方面の道は真っ直ぐ伸びていたが、車は走っていなかった。周りの状況は草木も生えてない土獏の光景、そして何も聞こえない静寂な世界がそこにあった。トボトボ歩いていたら、向こうから車が停まってくれた。そして私が黙っていたにも拘らず、ドライバーはキブツ前で降ろしてくれた。彼は私がキブツに入所するのを知っていたかの様で、全く不思議であった。乗った時間は20分程度であったであろうか。ハッゼリム キブツはベエルシェバからそんなに遠くなかった。
ゲートを通ると直ぐ管理事務所があった。管理人達は快く私を向かい入れてくれた。入所手続きを済ませると、管理人1人が銃を担いで私を部屋まで案内してくれた。キブツ敷地内には幾つかの共用建物(食堂、集会所、娯楽室、図書室、生活用品ストック及び配給所等)と共に、多くのこぢんまりとした家(10畳から20畳程度の広さの家)が沢山あり、そこは我々ゲスト用やユダヤ人用の家族単位で住める住まいであった。そして敷地内は良く整っていて、庭園もあった。アスハルトの歩道を事務所から10分程歩いてやっと私の家に着いた。数ある家の中で私の家(時には「部屋」「ハウス」とも言う)は一番奥、ベッドが3つ備えられ、広さが10畳程であった。
一番奥(奥付近のこの一帯はゲスト ハウス、所謂一時滞在者用専用の家)は、食堂を始め、幾つかある施設へ一番遠いのであった。一時的滞在者用では、仕方ないのであった。私の部屋には既に先客2人(北アイルランド人のフランク、ノルウェー人のピーター)が住んでいて、3人で住む事になった。部屋と言っても台所、トイレ、浴室は無かった。あるのは毛布1枚とベッドだけであった。毛布1枚では寒そうなので、管理人にもう1枚お願いしたら、「用意しますから明日、生活関連施設へ取りに行って下さい」と言ってくれた。他のハウスに住んでいるエンディ、バート、そして他のキブツ一時滞在者の仲間達からも快く私を迎え入れてくれた。
無事に着いてホッとした。お休み!!
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