goo blog サービス終了のお知らせ 

名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

@ 非論理エッセイ 【陳仁文(Vios Chen)氏の写真藝術】

2016年06月22日 | 日記


 料理の基本は水と云われる。中国の九寨溝の水は「簡単の美」と崇められる。簡単を超えるものは「精簡」と賞され、より緻密な味わいがある。究極のものは「極簡」となり、風格的な絶品となる。藝術の世界も同じかも知れない。

 「簡単」にさえ至らない作品が世に溢れている。「簡単」に至った作品は、世情に理解されず受け入れられない傾向にある。本ものの天才は、その死後認められた歴史の裏面がある。「精簡」は歴史を辿っても滅多に観ない。「極簡」は三千年の間に未だ数作しか現われていない。
 
 作家は何かを求め、求めるものに至らない心で創作する。至ると思う瞬間もあるに違いない。だが、次の作品でより深い挑戦を続ける。作者の死後、良い作品に「完成」という言葉を添えたくなる。角度や構図、色や音、動と静、思想を伴う黄金の均衡は、作家の内にはもともと存在しない。森羅万象を包む宇宙観は、真理として遍く存在する。これは、自然とは異なる。作家はそれを創造するのでも発見するのでもなく、直観で看破する。それを世間の言葉では「創造」と呼ぶらしい。此処に言葉の限界がある。表現する側の問題ではなく、受け取る側の限界である。が、鑑賞する側には再創造の可能性が与えられている。鑑賞の努力を続ければ、より近くまで接近出来るに違いない。

                 *

 Vios Chen の新写真集「山之頂・夢の嶺(上奇時代)」は傑作である。後ろ姿で山男を映す。足元は見えないが、靴を履いていないのが分かる。低いアングルでヒマラヤの威厳を描く。朝の空は暗い。光と陰を手段としない。笑顔の背後に巨大な世界が写し出され、森羅万象の「一即多」が現われる。現在に歴史の真相が浮かび出す。Vios 氏の撮り方は小津安二郎に似ている。真理を描く事以外眼中に無い。「伝は覚」という信念から、後継者に教える哲学も厳しい。明後日から、再びチベット行だという。

 「ヒマラヤに魅せられたのですか」と聴くと、「余りに寒く空気が薄いので危険を感じる。だから、本当の写真を撮る気になるのだろう」と笑顔で答えた。コマーシャリズムには一点の興味もない。こんな藝術家が未だ健在なのは、頼もしい限りである。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする