冬竹や 光も陰もあやもなく
雨の調べが 降りそそぐ
巷に広がる詩や俳句の概念は、人惑でどろどろに塗り固められています。本当の詩や俳句は、言葉の背後にある想念を表現する行為です。藝術か如何かと云う観点にも、何ら意味がありません。何故か…【藝術】という言葉の正しい想念は、レベルの高い芸術家ほど無処無住で捉えているからです。詰まり…形式などまやかしの常識に過ぎず、藝術には留まる処が無いのです。
良く短歌の基本型として「5・7・5・7・7」と云う事を云いますが、本当でしょうか…。実際には【溜め】と【間】があるので、【8・8・8・8・8・】。8x5音律であり、シェクスピアの5韻律と似ている。下記の【*】を一つずつ数えると、8拍子である事がお分かり頂けるかと思います。
ふゆたけや*** ひかりもかげも*
あやもなく***
*あめのしらべが ふりそぞぐ***
それもともかく…お遊びの俳句をひとつ。
冬竹や 雨振りそそぐ 鐘の音
第一節は【静】、第二節は【動】 第三節は【ものや具象を離れた想念】。初学の方々は、この様に書くと俳句らしく観えます。
*
白隠禅師の公案に「隻手の音声」があります。論理的には、片手で出す音を聞けという矛盾した問い掛けです。物質的に不合理だと考える限り、答えは無い様に思えます。観点を変えて、アインシュタイン博士の論理を適用してみましょう。「常識を疑う」「前提を外す」「同じ類の現象として同属化する」。それ程難しい思考法ではありません。
「隻手の音声」の音とは、空気を伝わる常識的な波動音でしょうか。「片手の音」に物理的な前提はあるでしょうか。「片手」と「音」は異なる存在概念でしょうか。常識、前提、差別化を放下すると実体が観えて来ます。
一例を示して見ましょう。
「隻手の音声」とは音そのものではない。聞くのではなく智慧の力で直観する。直観する自分自身も居ない。心で観ると云うその心も消える。色も音も形もない。その彼岸に隻手の音声が鳴り響いている。要するに、隻手も音も捨て去れば無為自然の存在概念が現われる。
チンプンカンプンだと良く云われます。だからこそ、詩や禅思想は面白いのです。
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