名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

@ 非論理エッセイ 【九鬼周造著 いきの構造】

2021年12月21日 | 日記
 子供の頃…父にすすめられ、九鬼周造著「いきの構造」という名著を何度も読みました。「粋(いき)」とは「野暮(やぼ)」の反対にある概念です。「粋」を「いき」とひらがな表記にした野暮な題名ですが、それはともかく...

「気に入らぬ 風もあろうに 柳かな」

 この川柳は、江戸後期の僧侶画家である仙厓義梵(せんがいぎぼん)の作ですが、粋な川柳の名作ゆえ掛け軸に飾っております。この詩偈を三十年もの間日々眺めるに付け、「粋の構造」は九鬼先生の論説とはかなり違う事に気付きました。

 粋の構造とは、総体たる【多】が観えるから、個々の事象である【一】が分かる。悪い事でも気にならぬ。【一即多】と云うよりも【多即一】が入り口で、天界宇宙の直感から一輪の花の持つ強さや美しさを知ると【多即一】が分かります。気に入らぬ風は、天・地・人から絶え間なく吹いて来る。が、天界宇宙の観点で捉えれば、柳の如く泰然と生きてゆけるという事なのです。

 九鬼先生は、対極論、比較論で「いき」と「野暮」を対立する想念として論じました。世界中で認められた学説です。しかしながら、その考え方は前提が根本から間違っている。【一】同士の摩擦にこだわるのが「野暮」。【多】全体を把握して【一】にこだわらぬ正しい見地が粋である。瑣末な「個」の相対比較論では、「粋の構造」とは云えません。

 学者諸氏の分析方法は、無極なる【多】を観ない傾向があるのではないでしょうか。この世の循環法則に触れず、机上の論理にこだわるからだろうか…とは思いながらも批判する意図など毛頭ありません。学者独特の思考形態は良く分かります。遠因は、論証可能な根拠を求める学会という堅苦しい環境にあります。その点文学の世界には、正しい見地の方々がいまだ健在かと思います。

 これ以上御説明すると野暮になりますので、この辺で。
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@ 非論理エッセイ 【世界共通語】

2021年12月21日 | 日記
 作家は世界に通用する言語で作品を構築する。これは言葉の問題では無く、スタイルの問題です。

 日本語を、英語やラテン語圏で理解しろという意味ではありません。翻訳文学がおかしくなるのは、表層論理の言葉尻を訳すからです。全体思想と単語の一即多を掴めば良いだけの事。どんな風に翻訳されても、言葉の背後にある想念と正しい見地が伝わる様に書く。必然的に、一つの言語でしか現わせない想念を捨てる事になります。そのコツは、子供達が読んでも理解出来る様に書く姿勢です。すると、外国の翻訳家でも、ある程度作品の本質を訳す事が出来る。

 哲学書なども同様で、本ものの思想が難解になる道理がありません。プラトンやサルトルは、ちんぷんかんぷん。根本の論理に大きな過ちがあるからです。あれでは、訳しようがない。カントやキェルケゴールなどの本物の哲学者は、あれ程混乱を極めた翻訳にもかかわらず、読んで分かり易い思想です。それは、思想家の想念がごく単純な形で整理され想念に整合性があるからに他なりません。

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@ 非論理エッセイ 【アンドレ・マルローの言葉】

2021年12月21日 | 日記
「アインシュタインが私にこう云いました。『この宇宙には、確かに、ある意味が存在する』と。その言葉が私の人生を決定したのです」

 さて、その意味とはどういう想念でしょうか…。

「21世紀は再び精神的時代となるでしょう。さもなくば、21世紀はもはや存在し得ない」

 精神的時代という「精神」は、何を指すのでしょうか…。

                 *

 意味ありげな言葉が目から伝わり脳が処理する。その時に言葉の前提を解析して確かな想念が浮かぶかどうか疑わしいものです。アインシュタインのいう宇宙の意味とは、「裡に矛盾を含まぬ普遍的な摂理。宇宙的な概念の全体法則」を指している。御本人の言葉が遺されています。観点は多少異なりますが、易経で云う乾坤の乾に当たるかも知れません。ちなみに、易は占いではありません。天籟・地籟・人籟の総体概念を捕らえようとした五千年前の叡智です。

 精神的時代という「精神」であれば、一即多(乾即坤)の思想世界に於ける精神であるべきでしょう。これは、中国南禅思想の根幹となる想念とも云えます。

「血文字の遺言」他...拙著に多々登場する「南禅」という概念は、南アジアで始まった原始仏教の事ではありません。達磨から六代目の慧能禅師が説いた「無一物思想」の流れを差し、その頂点に論理哲学を遥かに超えた臨済思想がある訳です。日本の禅とは似て非なる想念である事は、先ず間違いありません。幕末時代劇の次に上梓する出版作品は「遥かなる三籟・臨済物語」となりますが、題名だけで誤解されてしまいます。そもそも、名邑十寸雄に宗教小説が書ける筈はありません。そんな行為は「恥をかく」結果となります。宗教文学の皆様、お気にさわったら御免なさい。宗教を理解出来ない無才作家と捉えて頂ければ、もちろんそれは謙遜に過ぎないのですが、まあ仕方のない成り行きとも云えます。及ばずながら描こうとしたのは、易経、老子思想、論理哲学、禅の摂理の全体像から俯瞰した本ものの思想なのです。

                *

 文学の歴史には「自己矛盾を描いた」「国際的な精神が主題」「孤独を表現した」という様な物語があり、真禅思想(南禅)では執着として一蹴し放下されるべき概念が「精神」と誤解されるものです。人種差別、階級差別、未熟な心理学、裡に矛盾を含む論理哲学、神秘的宗教観、人間相互の無理解などが前提にあります。何十万年も掛けて親から子に伝えられた想念は、そう簡単に解けるものではありません。が、間違った前提を外すと、あっけない程シンプルな正しい見地が観えます。

 戦後の文学界を席巻した不条理という観念なども似ています。矛盾や混沌をこの世の真相と誤解し、複雑怪奇な現実のごく瑣末な現象を大袈裟に描く文学がちまたに溢れている。何故もっと単純な真理を描こうとしないのか、長年不思議に感じて来ました。「論理的な不条理」と「パラドックスと観える禅の真理(無一物中無尽蔵)」は全く異なる次元の想念です。前者は、悲劇に過剰反応した人間の錯覚に過ぎません。後者は物事の大極から無極に至る哲理と云える。偉大な哲学者とされるカントは、最晩年に老子思想の奥深さに気付いて愕然としたと云う記録が遺されています。それを知ったのは三十年程前の事ですが、それ以降イマニュエル・カントが好きになりました。少なくとも「正直なお方」だと感じたからです。それで、「寒山寺の鐘」のプロローグに登場して頂きました。カント教授であれば、南禅の摂理を理解なさるに違いないと思った為です。

 現代の若者達には、無駄な想念の研究に貴重な人生を浪費しない様お勧めしたい。それが、文学作品を後世に遺したい主たる動機です。と、真面目くさった表現は苦手ですが、作家にもそれなりの善意がある点を、矛盾と誤解に満ちたこの世に表明したい。あれ…何だか不条理作家の様な表現ですね。やれやれ…。

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