実話というものは、さほど面白くありません。その点を先にお断りしてから、以前盗難にあったエピソードを書き記します。
日本人として、約束の刻限前に到着する習慣があります。その日は、とある会談の時刻まで二十分余裕があったので、台北駅近くの喫茶店でお茶を飲みました。僕は外で煙草を吸い、同行者は勘定を済ませていました。席に戻ると、椅子に置いた黒皮の鞄が無い。連れの手にも無い。回りの席に居た方々に聞くと、誰も知らないと云う。鞄の中には、外出時に書く原稿のノートが入っていました。作家に取っては重要な記録であり、ゴールド・ファイルのビジネス鞄には、長年苦労を共にしたと云う不思議な愛着もあります。直ぐに警官が駈け付けましたが、重要な会談予定があったので警官諸君に任せました。
「入り口付近で煙草を吸っていたが、鞄を持った人物は出て来なかった。鞄は未だ店の中にある筈です。僕が戻るまで、入り口と裏口を見張っていて下さい。又、店内のカメラの位置を、全て確認しておいて下さい」
その時点で、鞄は戻らないだろうと諦めていました。中華圏では、盗難、誘拐、暴力事件など日本の比ではありません。表向きの情報とは異なり、統計に出ない犯罪が何十倍もあります。
小一時間後に戻りました。鞄は見付かっていない。駄目もとと思い、警官に特殊なお願いをしました。二人の警官が、店のマネージャーに大きめの声で説明したのですが、周りの人間に聞かせるのが目的です。
「もう直ぐ応援が来て、店の捜索を始める。カメラの録画を全て調べて犯人を逮捕する。被害者は、犯人を刑事告発すると云っている」
告発されれば、罰金では済まない。さりとて法的な拘束権はありません。客の出入りは自由。身体検査も、その時点では違法です。
入り口で見張っていると、手ぶらで出てきた男がいます。足が不自由で、外に止めていた小型電動三輪車に乗りました。
「君だね」と、横から声を掛けました。
返事はありません。が、両手を合わせながら拝む様な格好をしている。煙草に火を点け「行ってもいいよ」と云うと、若い男は頭を下げながら去って行きます。身障者用の三輪車ゆえ、見送るこちらがじりじりする程ゆっくりとした動きでした。
警官諸氏に、トイレや店内の目立たない隅々を捜す様にお願いすると、丁度監視カメラの視角から外れた踊り場のすみから、新聞紙を被せた黒い鞄が発見されました。警察が「カメラを調べて犯人を割り出します」と云うので「鞄は戻ったので、騒ぎ立てる程の事はありません。告発はしませんので、どうぞお引取り下さい。有難うございました」と礼を述べ一件落着です。窃盗は刑事事件ですが、被害者が通報しない限り警察は動けません。一流ブランドの鞄とは云え、中身は他人に取って何の価値も無い。未遂犯は、何事も無く無事逃げおおせた訳です。
何が起きたのでしょうか。鞄を盗んだものの、僕が入り口で煙草を吸っていたので、犯人は外に出られない。裏口は、キッチン経由しかないので、店の人間に怪しまれます。逃げる機会を伺っていたが、その後は警官が出入口に居たので鞄の持ち逃げは出来ません。監視カメラの記録も残っているに違いない。鞄をカメラの当たらない場所に隠し、恐るおそる外に出た。という訳です。
何かを失くしても、短時間でこの世から消えてしまう訳ではありません。盗まれた物は何もありませんでした。中を調べると、鞄の底からすっかり失くしたと思っていたモンブランの万年筆が出て来ました。その上、昔見慣れたペン・ドライブ(小型の記憶装置)まである。その夜コンピューターで中を覗くと、25年前に執筆した中編小説の原稿でした。
グランド・キャ二オンからの帰途、車がエンコして一晩野獣に囲まれた荒野を彷徨う「ゴースト・タウン」というSF小説です。カジノと展覧会で栄えるラスベガスの市街に隕石が落ちますが、車の故障で足止めを喰ったため命拾いする。人造的な砂漠の大都市が、原爆より巨大な炎に燃え上がり廃墟と化します。その凄惨な模様を、遠い原野から仲良くなった野生動物達に囲まれながら見守るのがラスト・シーンです。生命体系の繋がりと逞しさ、未来に続く希望を描いた小説ですが、まぶしい程に美しい破壊的な印象に納得がゆかず、長年放置していました。車のトラブルは実話です。キャデラックのリンカ―ン・コンチネンタルでした。危険は獣だけでなく、毒蛇もいる。食べ物どころか、水さえ無い不毛の世界なのです。その上寒い。
この物語の為に、野生動物や砂漠の植物を調べまくり、ネイティブ・アメリカンの生活様式や音楽、絵画などを研究し、お気に入りのエルトバ・ホテルに累計何十日も滞在した懐かしい思い出があります。この話をすると「あり得ない」と思うアメリカ人がいる。そこには、一寸した理由があります。グランド・キャニオンはロッジばかりです。唯一のホテル「エルトバ」は、大統領でさえ半年前に予約せねば部屋が取れないと云われております。が、一寸したコツがある。雪でセスナ便が飛ばない日に、凍て付いた危険な国道を600キロ走れば良いのです。それでなくとも、世界のトップ・ホテルは、常に予備の部屋を空けているものです。
「なぜ雪嵐の日に来たのですか」
「予約の取れないホテルと聞いたからです」
呆れ返ったオーナーと親しくなり、電話一本で予約OKのVIP待遇となったのは愉しい思い出です。大統領でも予約を取れないのかなと不思議に思いましたが、文学と無関係な些末事は直ぐに放念する癖があります。
「盗まれた鞄」の落ちには、なっていませんね。実人生に、物語の様な落ちなど無い。が、その背後に因果律がある。文学は正しい見地を描くものゆえ、作家はただ…その順番を並べ替え、何らかの真理を見い出そうとするだけの事です。
日本人として、約束の刻限前に到着する習慣があります。その日は、とある会談の時刻まで二十分余裕があったので、台北駅近くの喫茶店でお茶を飲みました。僕は外で煙草を吸い、同行者は勘定を済ませていました。席に戻ると、椅子に置いた黒皮の鞄が無い。連れの手にも無い。回りの席に居た方々に聞くと、誰も知らないと云う。鞄の中には、外出時に書く原稿のノートが入っていました。作家に取っては重要な記録であり、ゴールド・ファイルのビジネス鞄には、長年苦労を共にしたと云う不思議な愛着もあります。直ぐに警官が駈け付けましたが、重要な会談予定があったので警官諸君に任せました。
「入り口付近で煙草を吸っていたが、鞄を持った人物は出て来なかった。鞄は未だ店の中にある筈です。僕が戻るまで、入り口と裏口を見張っていて下さい。又、店内のカメラの位置を、全て確認しておいて下さい」
その時点で、鞄は戻らないだろうと諦めていました。中華圏では、盗難、誘拐、暴力事件など日本の比ではありません。表向きの情報とは異なり、統計に出ない犯罪が何十倍もあります。
小一時間後に戻りました。鞄は見付かっていない。駄目もとと思い、警官に特殊なお願いをしました。二人の警官が、店のマネージャーに大きめの声で説明したのですが、周りの人間に聞かせるのが目的です。
「もう直ぐ応援が来て、店の捜索を始める。カメラの録画を全て調べて犯人を逮捕する。被害者は、犯人を刑事告発すると云っている」
告発されれば、罰金では済まない。さりとて法的な拘束権はありません。客の出入りは自由。身体検査も、その時点では違法です。
入り口で見張っていると、手ぶらで出てきた男がいます。足が不自由で、外に止めていた小型電動三輪車に乗りました。
「君だね」と、横から声を掛けました。
返事はありません。が、両手を合わせながら拝む様な格好をしている。煙草に火を点け「行ってもいいよ」と云うと、若い男は頭を下げながら去って行きます。身障者用の三輪車ゆえ、見送るこちらがじりじりする程ゆっくりとした動きでした。
警官諸氏に、トイレや店内の目立たない隅々を捜す様にお願いすると、丁度監視カメラの視角から外れた踊り場のすみから、新聞紙を被せた黒い鞄が発見されました。警察が「カメラを調べて犯人を割り出します」と云うので「鞄は戻ったので、騒ぎ立てる程の事はありません。告発はしませんので、どうぞお引取り下さい。有難うございました」と礼を述べ一件落着です。窃盗は刑事事件ですが、被害者が通報しない限り警察は動けません。一流ブランドの鞄とは云え、中身は他人に取って何の価値も無い。未遂犯は、何事も無く無事逃げおおせた訳です。
何が起きたのでしょうか。鞄を盗んだものの、僕が入り口で煙草を吸っていたので、犯人は外に出られない。裏口は、キッチン経由しかないので、店の人間に怪しまれます。逃げる機会を伺っていたが、その後は警官が出入口に居たので鞄の持ち逃げは出来ません。監視カメラの記録も残っているに違いない。鞄をカメラの当たらない場所に隠し、恐るおそる外に出た。という訳です。
何かを失くしても、短時間でこの世から消えてしまう訳ではありません。盗まれた物は何もありませんでした。中を調べると、鞄の底からすっかり失くしたと思っていたモンブランの万年筆が出て来ました。その上、昔見慣れたペン・ドライブ(小型の記憶装置)まである。その夜コンピューターで中を覗くと、25年前に執筆した中編小説の原稿でした。
グランド・キャ二オンからの帰途、車がエンコして一晩野獣に囲まれた荒野を彷徨う「ゴースト・タウン」というSF小説です。カジノと展覧会で栄えるラスベガスの市街に隕石が落ちますが、車の故障で足止めを喰ったため命拾いする。人造的な砂漠の大都市が、原爆より巨大な炎に燃え上がり廃墟と化します。その凄惨な模様を、遠い原野から仲良くなった野生動物達に囲まれながら見守るのがラスト・シーンです。生命体系の繋がりと逞しさ、未来に続く希望を描いた小説ですが、まぶしい程に美しい破壊的な印象に納得がゆかず、長年放置していました。車のトラブルは実話です。キャデラックのリンカ―ン・コンチネンタルでした。危険は獣だけでなく、毒蛇もいる。食べ物どころか、水さえ無い不毛の世界なのです。その上寒い。
この物語の為に、野生動物や砂漠の植物を調べまくり、ネイティブ・アメリカンの生活様式や音楽、絵画などを研究し、お気に入りのエルトバ・ホテルに累計何十日も滞在した懐かしい思い出があります。この話をすると「あり得ない」と思うアメリカ人がいる。そこには、一寸した理由があります。グランド・キャニオンはロッジばかりです。唯一のホテル「エルトバ」は、大統領でさえ半年前に予約せねば部屋が取れないと云われております。が、一寸したコツがある。雪でセスナ便が飛ばない日に、凍て付いた危険な国道を600キロ走れば良いのです。それでなくとも、世界のトップ・ホテルは、常に予備の部屋を空けているものです。
「なぜ雪嵐の日に来たのですか」
「予約の取れないホテルと聞いたからです」
呆れ返ったオーナーと親しくなり、電話一本で予約OKのVIP待遇となったのは愉しい思い出です。大統領でも予約を取れないのかなと不思議に思いましたが、文学と無関係な些末事は直ぐに放念する癖があります。
「盗まれた鞄」の落ちには、なっていませんね。実人生に、物語の様な落ちなど無い。が、その背後に因果律がある。文学は正しい見地を描くものゆえ、作家はただ…その順番を並べ替え、何らかの真理を見い出そうとするだけの事です。