名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

¶ キネマ倶楽部 【ジョン・フォード】

2021年10月03日 | 日記
 戦中派の厳しい見地、奥に潜む深遠な哲学、皮肉な台詞に込められた深い洞察など、毒舌に潜む大らかで優れた人柄が辛辣で惚けた多くのインタビューから偲ばれます。「インタビューを嫌った」と喧伝する向きもある様ですが…それはまともな良識人であれば当然の事であり…80年代・ビバリーヒルズやダウンタウンのLAビデオ・ショップには、往年のインタビュー記録が並んでいました。今では、WEB情報に多々掲載されています。毒舌は、記者連に好かれていました。それは、インタビューをする一流記者の反応で分かります。戦中戦後の記者には、常識と教養がありました。どれ程ひどい言葉を浴びせられても、相手は気にしません。むしろ親しみと共に愉しんでいるのです。つまり、毒舌はフォード一流のジョークでした。そればかりか、記者の技量を試し教え導く姿勢まで感じます。

「それが、今の質問の意味か。もう一寸まともな質問が出来んのか」といった遣り取りばかりです。その上思わず笑ってしまう機知に富んでいる。1.先ず本音ではない外し回答をします。(漫才のボケ風)2.記者諸氏は、事実と異なるその過ちを攻撃します。(突っ込みです)3.すると、如何にもおかしいジョークで落とすのです。結局本当の事は分かりません。が、深い含蓄が込められている。そこに、何とも云えない大きな人物像が浮かび上がります。

 最高傑作は「男の敵」「ハリケーン」「荒野の決闘」「怒りの葡萄」「駅馬車」「静かなる男」「タバコ・ロード」「リバティ・バランスを撃った男」「わが谷は緑なりき」「三人の名付け親(Three Godfathers)」「黄色いリボン」「リオ・グランデの砦」「太陽は光輝く(The Sun Shines Bright)」「捜索者」。どれも素晴らしい出来であり、数え上げるときりがありません。こういう人物を天才というのでしょう。若くしてD.W.グリフィスの映画に参加し、映画作法をドイツのムルナウから直接学びました。が、もの真似はしない。「伝は覚」という箴言通り、己の道を切り拓いた傑物と云えるでしょう。

 現代の様な人気投票ではなく、「藝術性を重視していた時代のアカデミー監督賞」を4回受賞。現在も最多記録保持者として知られています。横に並んでいたのは、フランク・キャプラ、オーソン・ウェルズ、チャップリン、エルンスト・ルビッチ、ビリー・ワイルダー、ジャン・ルノワール、ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ、ウィリアム・ワイラー、ジョージ・キューカー、マイケル・カーティス(「カサブランカ」)、アルフレッド・ヒッチコック、ハワード・ホークス、フレッド・ジンネマン、キャロル・リード、ジョン・ヒューストン、デヴィッド・リーン、エリア・カザン…と数え上げるときりがありませんが、当時居並ぶ歴史的な大監督を思い浮かべると驚嘆すべき記録です。しかしながら、それ程の栄誉が小さく感じられる程に「完璧な名作」ばかりです。

「フォードは、『太陽は光輝く』を一番好きな作品として懐かしんでいた」と云う…当時スタッフで後に名監督となったお方の思い出話があります。ちなみに興行的には惨敗した赤字の傑作名画です。娼婦の死を悼む街の判事が、堂々と葬列に並ぶ。初めは娼婦の娘と二人だけの列が、やがて誰も彼もが続く大行列となる。そのプロットが、当時の小市民的な観客層の共感を得られなかったのでしょう。現実を鑑みれば世は偽善に溢れているゆえ…その点は人間世界の前提なので揶揄する積もりなど微塵もありませんが…世間体を気にして誰も参列しない。そこに奇跡が起こる。一見小さなエピソードなのですが、愚かな人間の性を乗り越える人々の勇気と人間の誇りが格調高く描かれた作品です。現代の映画書評を観ると、絶賛する意見ばかり。時代を先読みしていたと云うよりも、「名作群を通してフォードが正しい見地を広げた」という観点もあります。

 この逸話は、フォードの最晩年まで親交のあったリンゼイ・アンダースン監督(「八月の鯨」)の回想です。アンダーソンが一番尊敬していたのはフォードと小津安二郎ですが、小さなエピソードに潜む深い主題を描いた「太陽は光輝く」は、小津映画の完全主義に似ています。世評芳しからぬ名作を仕上げた後は、「さあ、西部劇に戻ろう。健康にも良いし、金も稼がないとスタッフに給料が払えんからな」と云ったそうです。その言葉通りに通年では巨額の利益を出し、個人の収入を退役軍人の支援金として寄付しました。そして後年は、「歴史に遺る名作」と讃えられ次世代に影響を及ぼした訳です。

               *

「貴方の映画では、何故女をぶつのですか」
 フォード監督は、黒いアイ・パッチ(眼帯)を付けた隻眼姿で記者をじろりと睨んだ。
「一体、俺がいつどの映画で女をぶったと云うんだ」
「ドノバン珊瑚礁」
「あれは…必要だった。他には…」
「『Quiet Man(静かなる男 )』です」
 フォードは、葉巻をふかしながら再び相手を威嚇する様に睨んだ。
「だって、可笑しいじゃないか。皆、笑っただろう」
 悪戯好きな子供の様に笑みを浮かべると、記者達は納得した笑顔で大爆笑の渦となる。

 同作品には、モーリン・オハラの背後から巨大な扇風機で風を送るシーンがある。オハラ嬢が余りの痛みから目を瞑ってしまう為に、何十回も撮り直しとなりました。
「何度云ったら分かるんだ。しっかりと目を開けろ。絶対に閉じるな」
「どうして、前からの風じゃあ駄目なの」
「黙れ。そんな事は監督が決める。役者は唯、云われた通りにしろ」
 モーリンの怒りが爆発した。
「髪の毛が目の中に入るのよ。この痛みは、あんたみたいな【毛の無い爺い】に分かる筈ないでしょうね」
 撮影現場に一触即発の緊張が流れる。女優がその場で解雇されると過剰反応したスタッフまでいた。が、ジョン・フォードは葉巻をくゆらせながら名女優をじろっと睨んで怒鳴り付けた。
「禿げた爺いだから、わしはヒロインをやらんのだ。それ位の事が分からんとは、お前はアホ(Stupid)だ」
 
 全員大爆笑の内に、最高のショットを撮り終えたそうですが、類似のエピソードが山ほどあります。

 アカデミー名誉賞に輝くモーリン・オハラは歴史上最も偉大な名女優の一人かと存じますが、フォードを父親の様に慕い口論ばかりしていたオハラ女史の思い出話にも大きな人柄が現われている。ある新聞に、かの大女優がフォードをべた褒めにした記事が出たのです。その記事を送ると、新聞の切り抜きと共にメモが返送される。中を開けると、「馬鹿もん。二度とこんなあほな事を云うな」と云うものでした。「全く、頑固で、独りよがりで、皮肉で、人を馬鹿にしてばかり…。でも…でも…」と、大粒の涙を流しながら言葉に詰まってしまった老後のインタビューには、オハラ女史の優れた人柄も現われています。この画像は、フォードが亡くなった後の回想だったのです。

 酔狂な伝説もあります。タオル一枚で飛び込み台からプールに落ちてしまい、腰に巻いたタオルも黒眼鏡も外れてしまったにも関わらず、葉巻だけはくわえていたエピソードが有名です。何十人も集ったパーティで、だいぶ酩酊状態だったそうです。そういう思い出話は、枚挙のいとまがありません。共に仕事をした方々の言葉を聴いていると、共通した点があります。誰もが、フォードを「手に負えない頑固親父だ」と罵ります。が、思い出に浸り涙ぐみながら微笑んでいるのです。そういう人間関係こそ、本ものと云えるでしょうね。

 カイエ派が云う様な「作家主義」の作風ではありません。日本映画の黄金時代を築いた森岩雄氏の映画製作論にある「プロデューサー・システム」は、フォードの映画思想が元になっています。そもそも、何々主義・何々派と云う様なまやかしジャンルには入らない。「リハーサルをせずワン・テイクで撮る」という変な噂が伝わっていますが、表層のみの馬鹿げた観点です。「静かなる男」の逸話からも分かる様に、問題があれば納得のゆくまで撮り直す。オハラ女史の言葉が残されています。「私達は、自主的にリハーサルを散々繰り返していました。それを十分承知しており、全て計算ずくなのです」。監督の押し付けではなく、役者やカメラの自主的な無為自性の力を引き出す作風と云えるでしょう。どんなジャンルにせよ、跳び抜けて優れた作家の基本姿勢かと存じます。その前提には、作法を腹の底まで理解したスタッフとキャストが必要であり、必然的に信頼する同じ顔ぶれとなる訳です。どの方々も、一流のプロばかりでした。日本に於いても、その映画作法が、森岩雄、藤本真澄、田中友幸に伝わり黒沢映画、稲垣映画を初めとする日本映画の黄金期が築かれた訳です。日本に限らず、フォードの影響は、全世界に広がっています。現代でも、若い世代が映画作法を学ぶのであれば、先ずジョン・フォードをお勧めするのが手っ取り早いでしょう。タルコフスキ―やヒッチコックの模倣は難しい。しかし、フォードやフランク・キャプラの作法を真似れば、そこそこのものが出来ます。奇をてらわず、基本がしっかりしているからです。こんな言葉も遺されています。

「良く演出の秘訣を聞かれるが、常識と信念さえあれば他に秘訣など無い。私は直感で演出した。最近の監督はカメラに気を取られ過ぎる。もっと、人間の顔、目の表情や動きを見るべきだ」

 黒沢映画や、ヴィクトル・エリセの「ミツバチのささやき」、アンダーソンの「八月の鯨」を観ると、「なるほどフォードと同じ感覚だな」と納得がゆきます。もの真似ではありません。創作の姿勢、そして作品の背後にある「正しい見地」が似ているのです。

 戦時中は、OSS(現在のCIA)撮影班でミッドウェィ海戦やノルマンディ上陸作戦にも参加しています。「志願」であった点が、米国の映画人に共通しています。日本軍の爆撃で負傷し勲章も貰っている。単に戦中派であったという以上に、強靭な体力と精神力があったと伝わっています。しかしながら、平和主義者でした。自身の思想に反していても、黙っていられない愛国心がある。当時の良識人に共通した行動と云えるでしょう。後の「シャイアン」では、インディアン(ネイティブ・アメリカン)の立場で名作を仕上げ差別主義に真っ向から反対しています。当時としては稀有な行動であり、それが後の差別排除に繋がりました。フォードの映画には世界的な影響力があったからです。その上、FBIでさえ戦中の英雄であるフォードには遠慮していました。ジョン・フォードを排斥する事は、アメリカ人全てを敵に回すに等しい行為だったのです。

 赤狩り時代に、差別主義に敢然として立ち向かった実話も有名です。「十戒」他大作映画で有名な大御所セシル・B・デミル監督が、リベラル派(反赤狩り派)のジョーゼフ・L・マンキーウィッツ会長(名画「イヴの総て」他の名監督)辞任要求を提案した時に、おもむろに立ち上がって云いました。「僕の名はジョン・フォード。西部劇を作っている。セシル・B・デミル氏が、如何に優れた映画を創ったか、大衆の人気を得ているか知っている。だが、彼の意見には反対だし、デミル氏も嫌いだ。デミル氏とその賛同者は委員を辞任し、残った良識ある人間だけで映画監督協会を継続する提案の決議を求める」という演説が有名です。

 只ならぬ迫力だったという参加者の言葉が記録されています。彼の意見は、断然多数で可決されました。当時は国家権力の弾圧があり、多くの映画人が悲惨な目に遭いました。正面切って赤狩りに反抗した記録は、ジョン・フォードや「喚問した裁判官を遣り込めたウィリアム・ワイラー(ベンハー、ローマの休日、他)」などごく僅かな例しか残されていません。チャップリンでさえ、FBIの画策で国外追放となりました。フォードの良識が、多くの優れた映画人を守ったのです。映画そのものにも、作家の世界観や人生の覚悟が描かれています。

「俺は臆病者だ。臆病を隠す為に、無謀な事をする。勲章は貰っても、臆病に変わりは無い」という映像記録も遺されています。フォードの名作群を見直すと、含蓄のある言葉と感じます。

 ジョン・フォードの人生そのものを映画化すれば、類まれな傑作が生まれるかも知れません。フォードの母親を、今は亡きモーリン・オハラ女史に依頼出来たら大喜びした事でしょう。

「ジョンの母親役ですって。喜んで演じましょう」
「フォードの映画だからですか…」
「そうよ。あの悪ガキのお尻を、皮がひんむけるまでひっぱたいて遣るわ」

コメント
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