名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

@ 非論理エッセイ 【ユージン・オニールの言葉】

2022年03月14日 | 日記
「人生が美しいからこれを愛すのではない。私はそれよりも真実を愛す。(物理的な)醜さの中にさえ(精神世界の)美はある」

 【非論理】とは、論理に非ず。物理的な論理では論証し得ない確かな真理を差します。が、こういう名言を人様に伝える時にいつも戸惑うのは、一体何を以って「美しい」「真実」「醜い」「美」とするかという点です。物質的、論理的に観る常識人の理解を超えた言葉です。

 正しい見地に立つには、先ずその偉人が前提とした「言葉の背後にある想念」を知らねばなりません。論理的に理解するのではなく、実人生と照らし合わせた直観が得られなければ真相を掴み様もない。必然的に、オニール氏の非論理的な作品を何百回と読む事になります。原書を読み解くのに随分と苦労しました。

 「楡の木陰の欲望」で有名なノーベル賞作家・ユージン・オニールは、アカデミー受賞映画「レッズ」にも登場します。ジャック・ニコルソンの鬼気迫る名演が光ります。余り知られていませんが、オニール氏はチャーリー・チャップリンの愛妻ウーナの実父でもあります。貧困と無知の中に真実の本質を見出したチャップリンは、オニール氏から何等かの影響を受けた様にも感じます。ちなみに、チャップリンとオニールは同年代です。

 チャップリン最晩年の名作を観ると、オーソン・ウエルズなど多くの藝術家との相互影響が仄かに浮かんで来て現代とは異なる藝術の凄みさえ感じます。有名人同士が集ったのではなく、確たる思想と偉大な才能が、お互いに惹き寄せられたのかも知れませんね。

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¶ キネマ倶楽部 【フランク・キャプラ】

2022年03月14日 | 日記
 フランク・キャプラ及び脚本家ロバート・リスキンの後継者はその後多くいますし、これからも出る事でしょう。映画監督を目指す若者達に、一番お勧めする監督と脚本家です。多くの名監督の欠点を丁寧に削ってゆくと、ドラマの技巧は結局フランク・キャプラのチームに辿り着くという感があります。これは映画に限らず、文学、音楽、演劇などにも相通じる観点です。その理由は、主題の普遍性、ドラマの構図、自然な表現、可笑しみ、感動の中心点、覚醒に繋がる題材(エピソード)と欠点のない作風、深遠な思想にあります。馬鹿馬鹿しい様な喜劇を大笑いで見終わった筈なのに、新しい人生の観点を発見して深い感銘が残ります。
 
 戦時中は、ジョン・フォードやウィリアム・ワイラー同様、軍隊に志願し、中佐にまで昇進しました。が、戦場経験から戦後は反戦思想となりました。この三人の偉大な作家を鑑みると、参戦経験が藝術思想に及ぼした影響は重要な観点かと思います。

 今さら御紹介するまでも無いかと思いますが、傑作の宝庫です。ジミー・スチュアートの代表作である「スミス都へ行く」では、独壇場の演説に魅せられます。アカデミー賞主要五部門を受賞した「或る夜の出来事」では、クラーク・ゲーブルの幅のある名演だけでなく、傲慢な金持ち娘が愛らしさ漂う娘に変化するクローデット・コルベールの演技が見事です。ゲーリー・クーパーとジーン・アーサーの代表作「オペラ・ハット」は、この二人の名優の最高傑作と云えるでしょう。ライオネル・バリモア、ジーン・アーサー、ジミー・スチュアート他名優総出演の「我が家の楽園」などは、今では不可能なキャスティングと云えるかも知れません。続けるときりがありません。キャプラは、アカデミー監督賞を三回受賞しています。どの作品にも完璧な溜めと間あいがあり、名優達の技巧を超えた無為自然たる演技に圧倒されます。その上、脇役まで上手い。キャプラ作品では、裁判官や秘書、警官や父親の役にも不思議な魅力があります。現代では、上手い演技の際立つ役柄が助演の映画賞を取る様ですが、キャプラの作品では演技とは見えません。無為自然と血の通った役に成り切っているのです。どちらが優れているかは一目了然です。

「ITS A WONDERFUL LIFE(邦題:素晴らしき哉、人生」という戦後最晩年の作品は、公開時興行的に失敗しました。が、アカデミー賞の五部門にノミネートされ、ゴールデン・グローブ賞を取りました。これを、最高傑作としてお勧めします。この映画の素晴らしさ、感動、覚醒感は、あらゆる宗教的誤解や似非論理の陥穽から抜け出した正しい見地と付記させて頂きます。内容を種明かしすると読者に叱られそうですので、先ず御覧になる事をお勧めします。天使の出てくる娯楽喜劇の様に見えますが、世界観が変わる程の驚きがあります。感動という様な表層意識を超えた深い覚醒感です。多少大げさに云えば、これから自殺しようとする人々がご覧になれば、もう一度人生をやり直して見ようと思う程の力があります。70年代以降の似非悲劇には無い映画藝術の魔力を感じる事でしょう。米国では、今やクリスマスの時期に放映する定番映画となっている様ですが、子供にも分かり易い表現にキャプラの卓越した才能がうかがえます。

 最期の作品「POCKETFUL OF MIRACLES(ポケット一杯の奇跡:注記)」も、完璧な出来に唸ります。グレン・フォードの喜劇的な演技、この作品でアカデミー賞にノミネートされたピーター・フォーク(「刑事コロンボ」)の上手さなど脇役の豪華さに舌を巻きます。が、何と云ってもリンゴ売りの貧しい老女と、高貴な貴婦人の二役を演じ分ける主役べティ・デイビスが本来の魅力を出し切った最高傑作と云えるでしょう。貴婦人に化けて登場するデイビスの華やかさは正に銀幕の女王であり、貧しい老婆との対比も【女優】という存在の理想的な姿だと云えます。

 キャプラやフォード、ワイルダーやオーソン・ウェルズの映画を観るといつも思います。新しい映画を十本観る暇があったら、見逃している古い名作映画を一本観る方が遥かに面白いだろうという観点です。最近まで見逃していた名作の中でも跳び抜けた感銘を受けたのは、やはりフランク・キャプラの作品でした。「MEET JOHN DOE(ジョン・ドウとの出逢い:邦題・群衆」です。伝説の名女優バーバラ・スタンウィッックの代表作と云えるでしょう。ゲーリー・クーパー、エドワード・アーノルド、ウォルター・ブレナンの怪演にも唸ります。尚且つおかしい。大不況で失業した女性記者がやけくそで作り上げた架空の自殺志願者ジョンにかりそめの人気が集まり、旅の浮浪者が金目当てでジョンの役を演じる。ところが心に響く名演説から、国民的ヒーローに祀り上げられてしまいます。その名声を利用して次期大統領を狙う大企業家との熾烈な争いから悲劇を通し、ほのぼのとした大段円へと繋がる。事実を告白してより確かな感動へと導くプロットに味がありますが、キャプラの微に入り細に入る魔法の演出は素晴らしいものです。安っぽい理想主義の映画ではありません。我が身の無力を悟りながらも、命を捨てて人の心に芽生えた真実を伝え様とする人間の尊厳が描かれている。近年の映画とは比較になりません。溜めと間の精度、名優諸氏の無為自然な演技、カメラ・ワークの完成度が飛び抜けているのです。作為がひと欠片も感じられません。日本には無責任な批評も多々ある様ですが、米国では名画選の上位を守り続け揺るぎ無い評価を得ています。

 1930年頃から発展した映画産業は、黄金期と云われた全盛期からTVの時代を経て1970年代以降は明らかに劣化しています。簡単に云えば、CGや画像処理、編集や撮影技術の進化と共に、演劇的・絵画的、文学的・音楽的な要素が一体となった精度が衰えたと云えるかも知れません。他にも、世界大戦を挟んだ傑作の宝庫から平和な時代になり、娯楽作品優先となった背景がある。まるで映画製作システム自体が創り上げた商業作品ばかりが目立ちます。興味本位のエピソードに幾らリアリティーを与えても、その奥には何もありません。覚醒となる大らかな主題が消え去り、技巧的にもどこかネジが外れている。ひと言で云えば、作家の世界観が小さくなっているのでしょう。近年の映画祭受賞作を観ると、その差は歴然としています。映画館でジェット・コースターの様なスリルと興奮を味わうのも愉しいものです。フュージョンで苦痛を忘れるのも、マフィア映画のショックを愉しむのもうさ晴らしにはなるでしょう。しかしながら、そういう映画に慣れてしまうと、現実から遊離し精神が麻痺してしまう。健全な精神に触れ世界観が変わる様な衝撃が、本ものの映画と云えるかも知れません。

(注記:邦題は「ポケット一杯の幸せ」)

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