山の辺の道を歩いていた時、なぜ平地に道を作らなかったのかずっと考えていたが、それは昔は奈良盆地全体が湖だったからとしか思えなかった。しかし証拠はなく無責任な想像に留まっていた。
ネットでいろいろ探していたら、奈良県のホームページに「300万年前に奈良湖が出現、200万年前に亀の瀬付近が崩れ、大阪方面に水が流れるようになった」旨の記述を見つけた。
その後奈良湖は水位を下げ続けたが、少なくとも飛鳥時代までは、法隆寺の南に直径数キロの湖として残っていた。凡そ標高45mの線だ。
その根拠の1つとして、万葉集の舒明天皇の国見の歌が挙げられる。舒明天皇は天智天皇達の父親だ。
大和には群山あれど とりよろふ天の香具山登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国ぞ蜻蛉島 大和の国は
またこの湖のあった地域には縄文・弥生時代の遺跡が発掘されておらず、当時の豪族の勢力図を見てもこの地域は空白地帯になっている。
また奈良盆地を南北に貫く幹線として上ツ道、中ツ道、下ツ道(平城宮朱雀門から南に伸びた街道)が奈良時代に敷設されたが、下ツ道の西には南北道はない。湿地か湖か、開発できない状態であったと思われる。
更に下ツ道に面する場所に唐古・鍵遺跡がある。
この遺跡はBC200年に遡ることができる集落で、出土した土器にはアワビなどの海産物が記されている。
河面も現在より高く水運に向いており、初瀬付近が外国との交流の拠点となっていたこともうなづける。
逆に、当時は度々の疫病に悩まされていたが、この湖がその原因の一端となったことは想像に難くない。宇治市の西、宇治川が湾曲する内側には、かつて小椋池という湖があった。この池は度々氾濫するに加えて水質悪化が進み、マラリア蚊が大量に発生していた。干拓で農地化されたのはWW2直前である。
疑問は大体晴れたが、亀の瀬が気になる。亀の瀬とは奈良県と大阪府県境付近の地名で地滑り多発地帯として有名だ。本当に遡上できる状態なのだろうか。行ってみたら、それ程の急流ではない。
両岸から綱で引けば1kmもなさそうな流域で、これなら行けそうだ。