最近ふと思ったフレーズがあったので、メモ代わりに記したいと思う。
若いときは、常に「最高」を想定して、自分のもっているキャパシティを大きく超えて行動した。
それが原因で色々な不具合ももれなくついてくるし、それが原因でできない自分に大きなショックを受けることもある。
まさに不器用な発想であり、不安定な危険な発想。体当たりで「最高」の自分という想像に向かって走っていく。
不器用、不安定。
ショックはもう受けたくない。
これが大人になったというのなら、そんな無難な大人にはなりたくなかった。
しかし、今の自分は間違いなく常に「最悪」を想定して行動している。事故は起こりにくい。起きたとしてもショックを受けにくい。言い訳もしやすい。安全な生き方を続けている。
守るべきものが増えすぎたのか?
求めることが減ったのか?
確実なのは、常に「最悪」を想像しすぎて、自分のキャパシティは頭打ちということだ。「最悪」を想定してもよいが、それにしばられてはいけない気がする。
たまにはなりたい自分の「最高」を描いてそれに近づくべく行動するのもいいのかもしれない。
生きている限り、どんな可能性もある。その可能性を減らす生き方はもう少し後の方でもいいのかもしれない。
若いときは、常に「最高」を想定して、自分のもっているキャパシティを大きく超えて行動した。
それが原因で色々な不具合ももれなくついてくるし、それが原因でできない自分に大きなショックを受けることもある。
まさに不器用な発想であり、不安定な危険な発想。体当たりで「最高」の自分という想像に向かって走っていく。
不器用、不安定。
ショックはもう受けたくない。
これが大人になったというのなら、そんな無難な大人にはなりたくなかった。
しかし、今の自分は間違いなく常に「最悪」を想定して行動している。事故は起こりにくい。起きたとしてもショックを受けにくい。言い訳もしやすい。安全な生き方を続けている。
守るべきものが増えすぎたのか?
求めることが減ったのか?
確実なのは、常に「最悪」を想像しすぎて、自分のキャパシティは頭打ちということだ。「最悪」を想定してもよいが、それにしばられてはいけない気がする。
たまにはなりたい自分の「最高」を描いてそれに近づくべく行動するのもいいのかもしれない。
生きている限り、どんな可能性もある。その可能性を減らす生き方はもう少し後の方でもいいのかもしれない。
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