「うつ病新論~双極2型のメタサイコロジー」という題名に惹かれて買ってしまった。
久々に読んだ現代思想。
そう、題名は「うつ病新論」でもこれは「現代思想」であったのだ。フロイトだとかラカンとか浅田彰とかスキゾとか、なんだか懐かしい言葉が行き交っている。
双極性障害の臨床医である内海健氏と社会学者・大沢真幸氏の「うつ病と現在性」は言っていることは判るが、何か新しいことや患者にとって意味あることがあるかと言えば、単なる文化論になってしまっている気がする。まぁ、「現代思想」だから仕方ないか。
結局、内海健氏の著作の言い方でいえば「大きな物語の喪失」が、対人同調性の高い精神疾病であるうつ病に、治るための足がかりをそれが「物語(神話)」であったとしても亡くしてしまったことで、病態に大きな変化をもたらした、という話である。つまりそれが双極性2型であったり新型うつ病あるいは軽症化である。
で、「物語喪失の認知」からしか出直すことはできないし、むしろ病者は一般の健常者以上に「物語の喪失」を直視しているからこそ病気になったともいえるという話だ。そして未だ一般人が棚に置いたままの物語喪失を、病者が直視しつつ快復への道筋を探す試みが一方で社会の新たなポスト・物語喪失の手がかりになる可能性もあるのではないかという、社会学的見方である。
確かにほかのブログで内海健氏の本を読んだ後で「それじゃあ、どうすりゃいいのさ」的なことが書いてあったが、そうした気持ちも分からないでもない。
一方で「大きな物語の喪失」はたぶん大きくはニーチェ等の「神の死」、直近では近代や高度成長期の右肩上がりや弁証法的社会経済発展をいうんだと思う。
自分がユングも読んでいるからいうわけではないが、それじゃあ「物語なし」でみんながいけるのかといえば、そうじゃない気がする。
確かに高度成長期という「大きな物語」は終わった。けれど人間にはやはり「物語」が必要だし、逆説的にいえばだからボクは「病んで」いるのだと思う。小さな物語、家族やコミュニティーの再生と限界性認知も必要だし、やはり小さな物語の限界性を支えるために普遍的な大きな物語も個別には必要だろう。その意味では河合隼雄氏が「宗教と科学の接点」の最後で語っているように既成宗教の社会的役割は未だあるのだと思う。
もちろん、病気はただ社会的なものではなく、もともとの傾向やボクの場合あきらかなトラウマがあって病気が成立しているわけだが。
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