焙煎屋にコーヒーを買いに行った。
落ち気味なので、ちょっと勇気がいったが、街に出ても結構大丈夫だった。
寝る前に、否定的な気持ちが起こってくるのはなんとかならないものだろうか。
焙煎屋にコーヒーを買いに行った。
落ち気味なので、ちょっと勇気がいったが、街に出ても結構大丈夫だった。
寝る前に、否定的な気持ちが起こってくるのはなんとかならないものだろうか。
今日は通院日だった。
早めに診察券を出したので、診察は午後2時台後半に受けることができた。
ボク:「2週間、なんとなくうつ気味でした。」
担当医:「でも抗うつ剤は躁転が怖くて出せん。」
ボク:「はぁ・・・・」
担当医:「とりあえず、同じ薬でいこう。頓服はまだあるか?」
ボク:「あります。」
こんな感じで同じ薬を貰ってきた。
いまうつ気味だが確かにもう抗うつ剤で躁転するのはゴメンだ。
なんとか今の薬で踏ん張るしかない。
自分は村上春樹の初期からのファンである。
つまり初期三部が出版される途中から、村上春樹を読み出しだ。村上春樹と同じ大学に通っていた友人が村上の本を紹介してくれた。
初期の「僕」を巡る文章の表現と内容に引き込まれた。
このたび、新潮文庫から「1Q84」が三月末頃から出版される。
ボクは「1Q84」を未だ読んでいない。ファンなのに変なのだが、どうも村上春樹はハードカバーでは読みたくないのだ。今までも、ハードカバーで読んだ村上はごく一部である。この感覚はサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」をペーパーバックや文庫で読みたいという気持ちとすごく近いものがある。
やっと「1Q84」が読める。
この癖はどうにかならないものだろうか。
何にしても、長編の「ねじまき鳥クロニクル」から「海辺のカフカ」への繋がりは、彼の描こうとしている世界が初期よりも明らかになってきている気がする。
「海辺のカフカ」は下巻だけでもたぶん50回以上読み返している。
果たして「1Q84」は何回読み返すことになるだろうか?
雨からか寒気からか、調子がちょっと落ち気味である。
こういうときには、心の底の方から悪い考え方、悪循環が起こりそうになる。
それに巻き込まれないように、ぐっと我慢している。
村上春樹の「海辺のカフカ」の冒頭だったろうか?
「砂嵐とのダンス」という風景?メタファーが描かれている。
砂嵐を避けようと、右へ左へと避けようと、砂嵐は同じく右へ左へと追いかけてくる。
大事なのは嵐の只中でじっと留まることである。
たしかそんな意味の文章だったと思う。
渦中に留まるというのはきついことだが、もしその出来事が避けられないものならば、それをじっくり味わうことが必要なのだろう。
右へ左へと逃げ回っていると、結局その災いの思うつぼに陥ってしまう。
災いの中でじっとしていること、それを受け入れること、そのことを必死でやっている。