皇居の落書き

乱臣賊子の戯言

皇室について論じることの苦しさ

2005-07-22 00:55:38 | 筆者のつぶやき
皇室について、あれこれと論じることにつき、筆者は、最近、胸の奥に苦しさのようなものを感じることがある。
世間での皇室をめぐる議論を見るにつき、物足りなさを感じ、真実はこういうことなのではないかという思いから、今まで、夢中で書いたりもしてきたのだ。
ここで、「真実」ということを述べたが、一口に「真実」といっても、それは多面的ではあろう。
筆者が言いたいのは、日本人の一人として見落としてはいけないはずの真実ということであり、筆者としては、皇室というお立場にある方々に対しての、人間としての共感ということが、大きな問題意識としてあったのだ。
このことは、今でも間違いではないと思っているが、ただ、こうして書き連ねていくうちに、どうしても、筆者自身のみすぼらしさというものを痛感してしまうのだ。
筆者自身、決して、高尚なことばかりを書くことが似合うような人間ではないのである。
ただ、つまらない存在としての自分に安住し、そのような自分の視点でのみ皇室を眺め、皇室を論じるということについては、結局、皇室というご存在を自らの次元に引き下げることになるようにも思われ、やはり、有意義とは思われない。
そこで、このような細々としたブログといえども、かなり無理をしながら書いているのである。
ただ、このように考えてみると、皇室に対して叱りつけるような物言いを行う者、しかもそれで生活の糧を得ているような者については、筆者としては、いよいよ理解不能である。
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皇室について考えるに伴う、雑多な感想

2005-06-24 01:02:13 | 筆者のつぶやき
皇室について考えるということは、特殊な問題のことを考えているかのようでいて、実は、今の社会の本質を考えることにも繋がるのではないか、そのように思うことがある。
確かに、多くの人の生活には、皇室ということは直接関係していないであろう。
であるから、しばしば、皇室が無くなっても、生活には直接関係ないし、大して困らないということが言われたりする。
それは、確かにそうであるかもしれないと、筆者でも思う。
ただ、皇室というご存在が体現されているもの、これが失われるとしたら、この社会は何とも生きるのが苦しく、不幸な状態になるのではないか。
皇室が体現されているもの、一口にこのように言っても、その内容は幅広く奥深いが、まずは、現在の社会の在り方、そして、一人一人の在り方というものが、過去からの無数の因果の連鎖の上に成り立っているものであるとの自覚と感謝ということがあろう。
社会にしても、一人一人の個人にしても、ある時点でいきなり存在し始めたのではなく、過去からの因果の連鎖の上に成り立っているということであり、世界の中の孤児ではないということである。
また、過去からの因果の連鎖ということは、同時代における、自らの他者との関係性を想起させることにもなろう。
このことは、一人一人の個人に対し、自らの役割と責任を自覚させ、そしてそれがあるからこその、達成感、充実感を生じさせることになるのではないだろうか。
人生における、達成感、充実感というものは、自らの役割と責任の自覚なしには、およそ得られないものである。
しかるに、現在の社会においては、人々が、自らの役割と責任の自覚を得る機会というものは、かなり乏しくなっているのではないか。
筆者自身について振り返れば、自らを、あたかも、自分一人で一つの完結した存在であるかのように考えていた時期もあった。
ただ、これは、やはり真実ではないのである。
そもそもが、両親から生まれた存在であるし、先祖について延々と遡っていけば、地球の始まりにも遡ることになろうか。いや、宇宙の始まりにも遡ることになろうか。
日々口にする食物にしても、多くの人の手を経て加工されており、また、その材料については、大地、水、空気、日光の賜物であるのだ。
このような関係性の中で、存在をしている。
そして、自分自身、変わらぬ存在のように思えても、この関係性の中では、子ども時代、青年期、中年期、そして老年期と、それぞれ異なる役割を果たさなければならないのである。
そして、これこそが真実であり、このような自覚の下、自らの存在を全うすることにより、人生の幸福を感じることもできるのだろう。
しかし、現在の社会では、このような自覚を得ることは、難しいであろう。
多くの人は、核家族という生活空間の中で大人になる。
この核家族というものは、どうしても、人間の生老病死に接する機会を乏しくしてしまう。
唯一求められる仕事は勉強であるかもしれないが、机の上での勉強など、自らの存在と世界との関係性の自覚とは、ほど遠いものであろう。
さて、このような生活空間で育った人間が、いきなり社会に出るというのは一苦労である。
そこでは、自分一人で一つの完結した存在などとはいっておれない。組織の中で役割を果たさなければ、存在意義を認めてもらえない世界に放り出されるわけだ。
また、結婚して、子どもができれば、これも大変なことである。子どもとの関係では、親であることが否応なく要求される。子どもに対して、自らを犠牲にして愛を注ぐ存在とならなければならないのである。
最近、職に就こうとしない若者の問題が深刻化しつつあるようだ。また、親殺し子殺しも、一昔前は大ニュースであったが、今では日常茶飯事である。また、出生率の低さは、年々深刻さを増すばかりである。
社会全体が、まさに内部崩壊の様相を呈しつつあるが、それは人々の世界観、自己という存在についての認識の問題と、無関係ではないのではないだろうか。
皇室とは、過去からの歴史の上に成り立つご存在であり、その無私なる境地は、自らのお立場への深い自覚に基づくものであり、国の平安の国民の幸せを念じられることに向けられたものだ。
なるほど、皇室の方々のご動静は、社会における一人一人の生活には、直接関係はないであろう。
しかし、このような、皇室というご存在が体現されておられるものが、この社会から失われるとしたら、後はもう、ひたすら滅びに向かうしかないのではないだろうか。
このように言うと大げさなようであるが、やはり、出生率の低下は大きな問題である。これには様々な原因があるが、人々に、子どもを生み育てることの意義が分かりにくくなっていることや、根気と覚悟が無くなっているという問題が大きいであろう。
皇位継承の危機ということを何度か述べたが、現在は、日本人そのものの消滅の危機に直面しつつあるのかもしれない。
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皇室の話を書き続けて、とうとう100回目。

2005-06-01 01:40:50 | 筆者のつぶやき
最近はかなりペースが落ちてしまったが、今回で、とうとう100回目である。
我ながら、よく続いたなと思う。
皇室についての自らの考えを延々と述べるブログというものは、そんなに無いのではないだろうか。
というのも、まず、日常生活において、皇室について考えるきっかけというのはそんなにあるものではないだろう。
あるとすれば、ワイドショーや週刊誌の記事ぐらいであろうか。
それに、皇室の話題を書いたとして、まじめに書けば書くほど、あまり面白くないというか、一般ウケしない内容になってしまうであろう。
ただ、それでも、筆者がこのブログを始めた当初に比べると、皇室を扱うブログは、かなり増えたようではある。
当初は、「皇室」という言葉をキーワードとして検索すると、筆者のブログがずらっと並ぶ状態であったが、最近では、すっかり埋もれてしまい、見つけるのが大変である。
ただ、若干、欲を申すと、皇室に関する多くの記事につき、そのような記事が生まれるだけの、論者の内面世界での必然性というものが、あまり感じられないものが多いように思われたのだ。
皇室の伝統が大事であるということがポンと言われる場合があるが、論者は、伝統一般について、何でもかんでも尊重したいという立場なのか、それとも、皇室について、特にそのように考える立場なのか。
皇室の伝統といっても抽象的であり、大事に思うという具体的な心の動きが生じるためには、単なる観念とは別な次元での個人的体験があると思うのだが、いったいどのような体験があったのか。
そういったことが表現されると、筆者としても、読みがいがあるので、期待したい。
筆者としての個人的な体験ということを簡単に述べると、やはり、天皇陛下が公務をなさっているお姿を見て、陛下はいったいどのようなご境遇なのであろうか、どのようなお気持ちでお務めをされておられるのだろうか、ということを、ある時ふと想像してみたことが、大きなきっかけであった。
皇室がどのような仕事をしているかについては、知識としては知っていたが、そのようなお立場におられる方も、やはり人間であり、人間としてのご境遇、お務めであるということは、かつては全く考えていなかったのである。
ひとたび、そのような視点で、天皇陛下のご境遇、お務めについて考えてみると、これはなかなか衝撃的であり、まったく他人事ではないということが、実感せられてきたのである。
陛下のご境遇、お務めは、日本国及び日本国民統合の象徴としてのものであり、日本人としての筆者と無関係なものではなかったのである。
無関係どころか、筆者が日本人であるということ、日本人としての過去二千年以上の歴史を受け継ぐ存在たらしめることの責任を背負っておられるものと感じられてきたのである。
そうなってくると、皇室について、無関心でよいのだろうかとも思ったし、面白い話題としてのみ扱うことに違和感を感じるようになったのだ。
少なくとも、皇室の側は、筆者を含む日本人のために、人生を捧げておられるのだ。
だから、例え、一億何千万分の一にすぎない存在であるとしても、筆者なりに、少しは皇室のお気持ちに、応えるべきではないかと思ったのだ。
もっとも、このようなブログにて、細々と書き連ねていったい何の意味があるのかと言われると辛いところであるが、以上が、あまり多くの人に読んでもらえないような内容を延々と書き続けてきたことの理由である。
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日本人の精神

2004-09-12 23:03:32 | 筆者のつぶやき
 皇室のことを考えると、世の中を見るに、知的に理解するというアプローチと、感覚的に感じるというアプローチがあるのだなということを、つくづく実感する。
 どういうことかというと、皇室の存在意義を考えるときに、知的な理屈付けを考えると、なかなか難しいのだ。
 皇室のご公務は、実務的なサービスではないから、契約的な利益の交換ということでは立証しにくい。
 しかし、かといって、無意味なものであるかというと、それもしっくりと来ず、そこには何かがあるはずであり、もやもやとしたものが残る。
 そして、いろいろ悩んでみると、結局、皇室に対して知的に理解しようとするアプローチが間違っていたのだなということに到達するわけである。
 そして、ひとたび、感覚的に感じるというアプローチがあることを思い出し、皇室の存在意義を理解しようとすると、これが実に明快になる。
 日本国始まって以来の、長く共有してきた歩み、今の皇室のご公務に現れている、国民の幸せを祈る姿。
 その存在に尊い価値があることに、何の疑いが生じるというのだろうと。 
 もちろん、感覚に基づく価値観というものは、自らが実際に感じることによって把握するものであり、他人に押しつけたりとか、説得できるたぐいのものではない。
 そこが、知的な理解と異なるところだ。
 そういう訳で、筆者としては、できるだけ多くの人に、皇室の存在というものを、感覚で味わってもらえたらと願うのである。
 もとより、感覚については、ごく個人的なものであるから、皇室に対して反発を感じる人もいるかもしれない。
 ただ、できるだけ多くの人が、皇室に対して、心の目を開き、感覚的に理解しようと試みるならば、知的な理解では把握できなかった方向性が、はっきりしてくるのではないだろうか。
 ところで、現代は、世の中を知的に理解しようというアプローチが、あまりに偏重されている気がしてならない。
 一つのたとえ話として、地震や嵐が起こったときに、それは自らの行いが悪いからだ、自らの行いが神様の怒りに触れたのだと感じ、怖れる人がいたとする。
 そのような人に対しては、何と愚かであるなと、大部分の人が思うであろう。
 しかし、確かに知的には愚かであるし間違っているが、そのような、自らと自然との一体感の感覚というものは、果たして、ばかばかしいと切って捨てることができるものだろうか。
 そのような感覚を持って生きる人生の豊かさを想像してみるに、何ともうらやましい気持ちになってしまうのである。
 もともと日本は、八百万の神の国なのだから、世の中の理解として、感覚的なアプローチが得意だったのではないだろうか。
 もちろん、知的なアプローチも必要であるが、併せて感覚的なアプローチというものの重要性を再認識すれば、日本人は、まだまだ復活できるのではないだろうか。 
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