何かしてます。

 無職だって退屈してません。「何か」してます。「何か」ってなんだ?

台風

2009年10月07日 16時45分39秒 | 思い出アーカイブス
 台風18号が近づいています。ちょっと心配ですが、過去このへんは大きな被害にあうことはなかったので、本当はあまり心配していません。

 台風というと、必ず思い出す記憶が3つあります。

一つ 『小さな私は、自転車の荷台に乗っています。辺り一面洪水です。親父が、膝まで水に浸かって自転車のハンドルを握って押しています。』

  今考えるとこの台風は昭和22年(1947年)9月のキャサリン台風と思われます。しかし、もしキャサンリ台風ならば当時の私は満3歳ということになります。こんな幼い記憶が残っているでしょうか?

一つ 『家の押入れの壁がドサンと、約1間くらい落ちたのです。落ちた壁の穴から外のイチジクの木が見えました。横なぐりの雨に打たれながら兄貴と二人で壁の穴に板を当てて押さえています。親父が板を釘で打ち付けていました。』

  小学校高学年ころのことだったと思います。6畳の間に家族6人が一緒に寝ていました。私は、兄貴と一つ布団に寝ていました。

一つ 『前橋で仕事をしていた当時のことです。台風一過の快晴のある日、利根川の近くをと通ると、堤防の上にたくさんの人がいるのです。行って見ると堤防を越えるくらい増水した利根川で、端に寄ってきた小魚を手づかみしたりトンボ網で救ったりしているのです。私もいっぱい魚を取り、実家に持ってゆき焼いて食べました。』

 20年位前のことだったと思います。このころ台風でよく利根川が増水し、河川敷の駐車場の自動車が流されたものです。

お役目ご苦労様でした

2008年07月12日 23時33分57秒 | 思い出アーカイブス
 上の孫が2歳になったころ、自転車チャイルドシートを購入した。
 祖父らしき人が赤ちゃん(孫)を自転車の前に乗せて走っている姿を時々見かけるが、ちょっといい風景だなーと以前から思っていたので、私もそんなじいちゃんをやってみたかったのです。
 でも慎重に考えました。転倒すれば赤ちゃんが100パーセント怪我をする。転倒しないように乗ろうと思っているが、いつアクシデントが起こるとも限らない。

 実は自分の不注意で、私の二人の子供に怪我をさせてしまったことがあります。

 息子が5歳のころだった。いつものように寝床で『お馬さん』などをして遊んでいるとき、何がどうなったか分からないが、傍らに置いてあった電気スタンドの丸い電球を息子がひざの裏ではさんでしまった。表皮がむけるほどのやけどをさせてしまい、かなり長いあいだ医者通いした。

 娘が4歳ころだった。自転車のサドルの前のフレームに娘を横掛けに乗せてかなりの速度で走っているとき、何かの拍子に娘の足が前輪のスポークの間に挟まってしまった。自転車が逆立ちして転倒し、私の身体が娘の上に落下した。そのまま抱っこして済生会病院に駆け込んだ。今でもスポークで挟んだ傷跡が娘の足に残っている。

 孫たちは二人とも、喜んでチャイルドシートに乗ってくれた。私も十分〈自転車じいちゃん〉を楽しませてもらった。事故の心配は杞憂にすぎなかった。

 お役目ご苦労様でした。大変お世話になりましたが、次の危険物に出させていただきます。ありがとうございました。


           

スーパーカブ号

2008年07月11日 15時05分46秒 | 思い出アーカイブス
 このホンダスーパーカブ50ccは数年前、『飯塚の国おじさん』に貰ったものです。おじさんの家に立ち寄ったとき、「乗るんだったらもってきな!」と言うので、あまり乗る予定もなかったのですが、ただならいいやと思い遠慮なく貰ってきました。国おじさんはお母さんの真の叔父です。私には義理の関係でしたが常にいい叔父さんでした。私どもの宅地も叔父さんの世話で手に入れたものです。父親を早くに亡くしたお母さん姉妹をいつも気にかけていたものと思います。

 貰ったものの、ほとんど乗らず雨ざらしになっていました。
 これからはガソリン代節約のため自動車はやめてこのスーパーカブ号に乗ろうと思っています。
          


 実は若いころ、もう1台スーパーカブ号を貰って乗っていたことがあります。死んだ親父が乗っていたバイクです。
 亡くなる2,3年前に買ったものです。自動車が欲しかったが、色々な事情でバイクで我慢したと聞いたことがあります。私が19歳のとき交通事故で入院していた大原病院に、そのバイクで親父が飛んできてくれたことをよく覚えています。

 親父が死んだ後、そのバイクを私が貰って乗っていたのです。22歳のとき左遷同様の人事配置で高崎から渋川に転勤しました。心の中で泣きながら、表面は平静を装って親父のカブで渋川街道を疾走しました。

 渋川で軽四すずきフロンテを購入しました。親父のスーパーカブ号をどのように始末したか覚えがありません。

太田の思い出

2008年06月19日 12時01分42秒 | 思い出アーカイブス
● その1
           (平成20年6月9日撮影)

 昭和53年(1978)4月から同56年(1981)3月までの3年間、この建物の一室に居住した。私が34歳から37歳までのことである。
 長男が2歳から5歳の間、居住して2年目に長女が生まれた。
 仕事も順調、一男一女に恵まれ、公私共に充実した毎日だった。

           



● その2
           (平成20年6月9日撮影)

 平成13年(2001)4月から同17年3月までの4年間、妻子を高崎において単身赴任して一人で居住していた。とは言え、後半はほとんど家から通っていた。私が57歳から60歳の定年退職までのことである。
 何とか退職まで頑張らなくてはならないと思い、仕事はほどほどにして健康管理に心がけた。毎日のように泳いだり山に登ったりしたものである。

          

 ※ 当時の日常的スタイルです。
   この写真は、泊まりの仕事を終えて一眠りしてから山に登ったときの写真のプリントを注文するため、『写真屋さん45』に立ち寄ったときのものです。セルフタイマーの使い方など店員さんに教えてもらいながら撮りました。
 この後プールに行くのでバスタオルをもっているわけです。

この場所(その六)

2008年05月26日 22時28分17秒 | 思い出アーカイブス
夜の榛名湖です。ゆうすげの前辺りは浅瀬になっています。
昔この辺りで海老をたくさん採りました。
暗い湖に膝くらいまで入り、水の中を懐中電灯で照らすと海老の目が光るのです。狙いをすませて網ですくいます。
スナックに持っていって茹でてもらい、酒の肴にします。
(以上 5月23日23時19分記 ホテルにて)


※ 追記(5月26日)
  昭和44年頃、25歳前後・独身時代の楽しい思い出です。

  このころ、自称「天下の義経」こと吉沢先輩によく連れまわされました。榛名湖海老取りも吉沢さんに連れて行ってもらったのです。

 あるとき深夜のハシゴの後、吉沢さんのアパートに泊まりました。
 そのとき、江戸時代の春画と吉沢家の家系図を見せてもらいました。

 家系図によると
 【吉沢家は清和源氏の末裔でした。
  江戸時代、清和源氏系の大名の次男か三男だった吉沢家のご先祖は、酒の上の失敗で?月夜野に流されたのです。家系図をさかのぼれば清和天皇に繋がります。】
 
 伊達に【天下の義経】を名乗っていたわけではなかったのです。立派な根拠があったのです。

この場所(その五)

2008年05月26日 21時42分16秒 | 思い出アーカイブス
写真のほぼ中央湖上がその場所です。
昔ワカサギ釣りをしているとき、高橋ぶきゅうさんがボートから落ちたところです。
あのときは焦ったなんてもんじゃーなかった。
(以上 5月23日12時53分記 現場にて)


※ 追記(5月26日)
  平成3年か4年の11月下旬頃、職場のレクで【榛名湖わかさぎ釣り】を企画しました。
 チーム6人が参加し、年寄りペアとして私と高橋ぶきゅうさんが1台のボートに乗りました。

 高橋さんはもってきたウィスキーのボトルを開け、飲みながら釣りを楽しんでいました。

 かなりの時間が経ちました。二人ともまったく釣れません。釣れない釣りに飽きた私が、釣れたわけではないのに「釣れた、釣れた高橋さん!つれたぜ」と冗談を言いました。
 「どこ、どこ」と言いながら湖面を覗き込んだ高橋さんは、そのまま頭から湖にのめり込むように落ちてしまったのです。ボトル半分以上飲んでしまいベロンベロンだったのです。

 落ちる瞬間、高橋さんの腕をとっ捕まえることが出来ました。私に腕を掴まれ、顔だけ水面に出している高橋さんは騒ぐこともなく、酔っ払ってニヤニヤ笑っていました。

 大声で助けを求めると近くにいた同僚のボートが助けに来てくれました。私が腕をささえ、同僚が高橋さんのベルトを掴んで、「ヨイショ!」と掛け声をかけて引っ張りあげました。一発でボート上に引き上げることが出来ました。幸運なことでした。

 湖畔亭でお風呂を沸かしてもらい高橋さんを温めました。
 
 湖畔亭までずぶぬれの高橋さんの乗せてボートを漕ぎました。なぜかこのとき大笑いしました。今考えても人生最大の大笑いでした。
 湖に落ちるかっこう、水の中でニヤニヤしている姿が目に浮かび笑いを抑えることが出来なかったのですが、今考えると【極度の緊張から開放された笑い】だったでしょう。 

この場所(その四)

2008年05月26日 17時32分02秒 | 思い出アーカイブス
泳ぎついた
ひともっこ山のふもと
です。
(以上 5月23日12時14分記 現場にて)

※ 追記(5月26日)
  沖に出るとボートに乗って救命着を着けていても、なんとなく不安で怖いと思った。
 あの当時は「怖い」と思わなかったのだろうか?

  その後職場の旅行で佐渡に行ったとき、やはり空井と海の沖の方まで泳いで同行者を心配させたことを覚えている。このようにその後も同じように空井と泳いでいた事実をみると、榛名湖横断のときは少しも怖いなどと感じていなかったのだろう。

この場所(その三)

2008年05月26日 16時31分06秒 | 思い出アーカイブス
これから手こぎボートで昔泳いだコースをたどってみます。
(以上 5月23日11時55分記 現場にて)

※ 追記(5月26日)
  榛名に来たときは、必ず湖畔亭の文子さんのお世話になっています。今回もボートを借りる面等を見てもらい、料金もサービスしてもらいました。感謝、感謝!
  
 私が普通に手漕ぎボートを漕いで片道約20分かかりました。小学校のプールで覚えた平泳ぎとは言えないカエル泳ぎで往復(手漕ぎボートにして40分)を泳ぎきりました。たいしたもの?でした。 

この場所(その二)

2008年05月26日 16時06分59秒 | 思い出アーカイブス
その昔友人の空井とふたりで、泳いで榛名湖を横断しました。往復です。
この場所から湖に入り対岸の『ひともっこ山』の岸まで泳ぎました。
(以上 5月23日午前11時37分記 現場にて)

※ 追記(5月26日)
  当時19歳でした。
今と違って遊泳禁止になっていなかった。仕事を終えてから、仕事で使ったモーターボートで遊んで大騒ぎした後、その勢いで沖に泳ぎだし、空井がついてきてそのまま横断してしまった。

この場所(その1)

2008年05月25日 22時27分41秒 | 思い出アーカイブス
榛名湖南岸です。
昔、息子が彼女とデートに来て自動車のエンジンキーをなくしてしまった場所です。
お母さんと合鍵を届けに来ました。
(以上5月23日11時07分記・現場にて)

※ 追記(5月25日)
  このときの彼女はその後息子と結婚し、我が家に幸せをもたらしてくれました。
 更に彼女は、今では可愛い二人の孫を私ども夫婦に与えてくれました。
 あの時、面倒がらずに〈この場所〉までキーを持ってきてやって「よかったなー」とつくづく思っています。