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ちかごろ、めっきり現金で支払う場面が少ない。
何でもかんでもデジタル処理だ。
加速するデジタル社会の究極を夢想してみる
人間社会はルビコン川を渡ってしまったのではないだろうか。
核爆発の方法を見つけ、遺伝子の配列を読み、
高機能で精密な人工知能を駆使できるようになった。
これまでの世界を旧社会型と呼ぶような、
社会構造の大変化がすぐにでも現れるような気がする。
人の手による技法の製作物は極めて限られ、
あらゆる製作物を人工知能による自動機械が作っていく。
着想だけ入力すれば、
あとは絵画も音楽も詩や小説さえ人工知能が作るとさえ考えられる。
すでにAIに将棋名人もやられてる。
いかにデータが膨大であっても、AIは汗もかかずに瞬時に解析してしまう。
AIの得意とするところだからだ。
科学技術は、精密とか微細な技術や機器の創出に一段と弾みをつけていく。
人の肉体の深部も微細に鮮やかな映像として可視できるだろう。
樹木が水分を吸い上げる様子さえ容易く覗けるかもしれない。
微細な世界にどこまでも入り込んで行けるようになるだろう。
衛星による測位や分析が様々な分野に多用される。
農耕も自動化が進み、大半は工場野菜になる。
軍事的な分析も武器も戦略さえも、何もかも様変わりせざるを得なくなる。
火力や破壊力より、電気力の装備、通信妨害力が重要視されるに違いない。
記憶やプランの選択が人間の得意技ではなくなる。
何事も入力次第で実現してしまう。
通貨の現物は消え去り、労働の概念が変わり、
中央集権的な組織は姿を消し、特徴を持った小集団が林立し、
その縦横な連携や離散が繰り返される。
産業構造のモジュール化が当たり前になる。
完成品より、小型精密部品の創出が産業の主役になっていく。
人間はもっぱら発想や着想の仕事を担うだけになっていく。
プランの工程表さえ人工知能が担当してしまう。
”旧社会”の作業方法の解体に、人はついていけるだろうか。
社会の有り様を人工知能時代に整合せることが出来ても、
人が目標や喜びや創造を見失うのではないかと大いに心配する。
人の心理と生理は、自動化を嫌い始めると思う。
むしろストレスになり、人間の泥臭さや手間のかかることに、
むしろ安らぎを求めるようになるのではないか。
自動化の少ないサービスに贅沢さを感じるようになる。
懐古趣味で気分がリッチになる。
想定を超える奇態な現象がきっと出現するに違いない、
制御の利かない事態の発生が起こるかもしれない。
そういうつもりでルビコン川を渡ったわけではないとしても、
新しい技術開発の欲求で開けた扉の向こうには、
どんな世界が組み立てられていくのだろう。
きっと想定外ばかりだ。
この100年間の科学的な解明と技法は、
それ以前の何千年の人類の知見を遥かに遥かに遠ざけてしまった。
さらに加速して増幅するその科学力は、
次の100年間では幾何級数的な展開をみせていくだろう。
さらにその次の100年をと想像すると、
むしろ人間社会の破壊に向かっていくのではないかと僕は怖れてしまう。
ずいぶん前に亡くなってしまった両親が、
今のデジタル社会を覗けたらびっくりするだろうと、時々面白がってみる。
父親は長年”ニュース映画”に携わっていたので、
今の通信状況や映像による情報の氾濫を知ったら、どんなにか驚くに違いない。
同じく、50年後の世界を私が覗けたら、サプライズが溢れていることだろう。