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多数の決が唯一の民主的な政治手法と信じられ、
経世の根拠になっている。
だが全員の幸福は目指せない。少数は常に軽視される。
民主制度は単なる手続きである。
異論は多数を得て正論に変わる。正論は少数の時、異論になる。
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選挙の際、候補者の見識や良識が審査されることがない。
選挙制度の最もアホなところだ。
投票者の選択眼もユルいので、3バン(地盤・看板・鞄)があれば、
ほぼ選ばれていく。
投票者のレベルでしか政治家は生まれない。
言論が第一義にならず、連呼して多数票を得ればすべて良しである。
選ばれた理由を審査されることも決してない。
他方では、一票の格差さえも長年放置されている。
この民主主義には厳格さがない。国会の怠慢は度を超している。
なぜなら、そうやって選ばれた人たちが集まっているからだ。
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多数を取った決はそれ以上の審査を受けないから、
決はすなわち社会の正義となる。
烏合の衆の一時的な熱狂でさえ、正義だ。
多数を集めても、具体的な運営者(内閣)はわずかの者たちである。
大きな社会であっても、一握りの人たちの権限で動かされる。
強引な運営、性急な結論、誤った管理の横行も発生する。
民主主義が、教科書どおりには進まない。
やはり利害の偏在を黙認する方便なのだろうか。
そこには、
グルになって利害を共有する事業、政治、官僚、情報がある。
であるなら、社会の命題は、
矛盾を現わす多くの場面で点検を怠らないことである。
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清新で強い政府が起ち上がっても、
例外なく、惰性と腐敗の常在菌を自らに宿していて、
それは時間とともに培養される。
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政治家の本分は何かと、教科書のようなことを問うても、むなしく思う事が多い。
国会論議とは、今や単なる言い逃れの場に過ぎないのか。
議席数にかかわらず、政権側に言論を持って信念を述べようという勇気がない。
宿題を忘れた生徒が、ズルいいいわけしているような光景ばかりだ。
憲法論議にしても、正面から入っていかない。隙間や裏口ばかり探している。
加えて、失言や釈明や撤回の横行は、選良たちの不誠実と劣化ばかりが目立つ。
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与野党の論議の貧困さに、私は寒気を覚える。一党独善の社会さえ誘発しかねない。
批判を封じる政権がのうのうと出現すれば、露骨な排他主義が正義を得てしまう。
政権側が傲慢に立法を策しても、ほとんどブレーキをかけることが出来ていない。
与党は、踊りやすい独善癖の首長を登場させ、崇めるようにその政権に加勢する。
野党勢力の貧困さが、裏を返せば政治の現状の立役者となっている。
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政治勢力をみて、どうしても野党の有り様を非難したくなる。
野党の責任とは何か、孤塁を守ることか。
それは政治を動かす力になっているのか。
彼らは、政党の作り方の勉強会ばかりに時間を費やしている。
与党に野合だと揶揄されて、その通りに野合に終わってしまう政治的劣等勢力である。
野党の価値と活動に期待して投じられた票は、長年にわたって死票同様になっている。
与党を性悪者へ促してしまうのは、野党の責任だと思う。
奇跡的に、政権奪取を国民から与えられたと思ったら、党内覇権争いで自壊してしまった。
それはとても後味の悪い幻想だった。その総括さえ国民に届いていない。
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ジャーナリズムの原則と義務は何だろう。
社会がいよいよ複層していくほどに、そのことが気になってしまう。
複層、拡散していく社会は、原則や信義を見えなくしいる。
伝播力の強いメディアやそのスタッフの報道の基軸と意思は何なんだろう。
ニュースの信頼性、独立性は保たれているのか。
自己批判力はあるのか。
いまや、多様なITメディアを介して氾濫する無原則な発言との違いは何だ。
社会の道筋と経営を、政治の舞台だけに演じさせないのがジャーナリズムの役割である。
政治家ではない側のそれが自由と義務である。
まず、憲法に関する姿勢を明示すべきである。
現社会の運営はそこに発しているからだ。
報道者の識見が、読者の指針になるのかどうか社会に問うべきである。
メディアは、論説を果敢に展開すべしである。
それを公開することがそれぞれのメディアの立ち位置であろう。
複数のメディアが現実を目前にして、それぞれの信念と方法を論じることが、
総体としてのジャーナリズムのバランスではないかと思う。
神のような不偏などあるわけなく、それは読者を混迷に導く幻想である。