北へ向かえば久留米市、南へ行けば熊本県に通じる国道が、僕の住む町を貫いていた。
その国道の片側を、久留米まで単線のチンチン路面電車が走っていた。
12キロの短い路線だ。
地元ではこの電車を、みい電車と言っていたが正式の路線名はなんだったか?。
僕の家はその電車道沿いにあって、終点となっている駅舎まで100mほどであった。
僕は駅員や運転手や車掌とすっかり顔見知りで、
たびたび、終点の久留米まで乗せてくれた。
小学生の5,6年生の僕に久留米に用事があるわけではない。
ただただ電車に乗るのが楽しかった。
終点まで乗って、その電車の戻りに乗って帰る。ただそれだけだ。
戻りの時刻合わせの20分間を入れても、折り返し80分ほどである。
久留米は知らない町だからチョコチョコ歩き回ることも適わず、
戻りの出発を待つだけである。
滅多に行けない隣町に、僕がタダ乗りで度々行ってることを知った同級生たちは、
大変羨ましがっていたようだ。
みい電車-2 12号と34号
かつては都会の路面を走っていたに違いなく、車輌の型は古い。
乗降口に扉がなく 、運転手は立ったまま運転する。
運転席よりわずかに高床になって客席があった。
せいぜい40人かそこらが乗客定員数であったろうか。
車掌が頭上の紐を引いてチンチンと鉦を鳴らと、電車をスタートさせるのである。
今ほど社会が小うるさくなかったし、
少年が扉無しの乗降口の手摺りに掴まって身体を外に出しても、
誰かに咎められるようなことも起きない。
危険かどうか、自分で判断すればよかった。
町を出ると久留米市までおよそ12キロ30分ほどの間を、
旧型の路面電車は車体を左右に揺らし、
砂ほこりをいっぱい残しながら村や野原を抜けていく。
国道ではあっても、町を出ると舗装などされていないし、
路肩も整備されていなかった。
全国域で舗装道路が標準になるのは20年も後のことだ。
電車も自動車も、晴れの日はりっぱな土埃を撒き散らして走り、
雨の日は通りの家に遠慮ない泥水をはねて通り過ぎる、見慣れた光景だった。
毎度のタダ乗りとはいえ、僕が好きな車輌は12号車と34号車だった。
明らかにスピードが違うのだ。
今でこそ完璧な一級道路になっているようだが、
そのころは町を出ると雑木林か田畑で、キツネやタヌキが線路を横断するのを見かける
ことも度々あった。
12キロ先の久留米まで信号もなく、上り下りの電車が離合する駅が1カ所だけ。
離合駅でタブレット輪を交換していた。
途中、 峠越えのような、上り下りの急な坂が2カ所あった。
長い下り坂で、運転手はブレーキを開放して、車両に思いっ切り惰力をつける。
うわーんと坂を下ると、その惰性よろしく弾むように上り坂に挑むのだが、
もっても坂の3分の2までで、運転手は頃合い良く加速器のハンドルをギリギリギリと
最大まで入れる。
僕もその側で惰力が上りに入る瞬間、一緒にジャンプするような体勢で上り坂に立ち向
かっていた。
この加速ハンドルの音を今でも思い出せる。
みい電車-3 車掌のねえちゃん
電車の駅に僕を可愛がってくれた若い女性の職員がいた。
そのおねえさんの勤務が半日の日に、自分の家に連れて行ってくれるという。
ボクの町からバスで20分ほど離れた村の農家である。
約束の日にバス停で落ち合った僕は、
いち早く自分の切符を買おうと窓口にお金を出したら、
後ろからおねえさんが、子供がそんな気を遣うものじゃないと、
アハハと笑いながら僕の手を引っ込めさせた。
僕は、切符代は当然おねえさんが払ってくれるものだと思ってる子供に思われたくなか
ったので、落ちあって最初にすることは、おねえさんから降りる駅を聞いてさっさと
自分の切符を買うことだと、前の夜寝る前に決めていたのだ。
おねえさんに変なことに気を回す子供だと思われた気がして、恥ずかしくなった。
母親が、お前の気の使いようが姉ちゃんと代われば良かったのにね、
とよくこぼしていたが、この場面もきっとそうだったのだろう。
そう、ボクは気遣う子供だった。
来客があれば、もうそろそろお茶を足してあげたほういいんじゃないかとか、
ご飯はまだ出さなくていいの?とか、
他人が交じっている状況での気の使いようが、子供らしくなかったのである。
おねえさんの家で、庭先に出ている牛にこわごわエサやりを試みる僕を見て、
縁側からおねえさんのお父さんが大きな声で僕を煽ったり、
怖がらせたりして面白がっていた。
牛や馬を見かけることは珍しくなかったけれど、
何せ僕は町の子で、家畜にエサを食わせたこともないのだ。