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信仰とはなんだろう、日本社会での信仰の様子は、
それは敬いという一言に尽きるように思う。
自然への畏怖や尊び、祖先が遺したものへの敬いである。
それらを素朴に祀り敬う。身を清めて敬う。
神道にせよ仏教にしろ、信仰者が教典の文言なぞることはないに等しい。
言葉が平易でもない。
噛み砕いた解説が必要なほどである。短い定型句を唱えるばかりである。
絶対的な神を創造しているわけではない。
神社では神話の世界ばかりでなく、武勇や偉人を祀って敬っている。
奉る、崇める、あやかる。あんがい、身近な存在である。
山も海も岩も大木も敬いの対象である。
自然を畏怖し、恩恵を得ているからである。
かたや、
西欧などの一神教の社会では、神との対話ということに尽きるように思う。
彼らは絶対的な神というものを創造している。
その信仰は、神の使者、神の子の教えとの対話である。
人々は生まれた時から神との契約を負わされているように思う。
一神教に倫理を委ねた生涯こそ、人のあるべき生き方とする。
そこには多くの平易な言葉があり、説得力を持たせるようなレトリックが駆使されている。
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自然界に畏怖を覚える。
であるが、神への畏怖とか宗教ということへの信仰は心底ない。
どの宗教組織であれ、体のいい催眠洗脳集団に思えるではないか。
一神教に倫理を委ねた生涯こそ、人のあるべき生き方とする西欧などの規範は、
私には空恐ろしい。
異教徒を認めない、信仰心を持たない者を排除する偏狭な世界だからだ。
人間の思考に、あるいは志向にそんなが必要なのだろうか。
彼らは信仰のない者を下等な生き物のように差別する。
だが私の眼にはそういう一神教の信奉者が、軛から抜け出せない、抜け出したくない、
狭い思考の城内に囲まれている人たちに見えてしまう。
その指導者は巧みに言葉の誘導力を駆使することに腐心する。
信仰者は一神を、無条件に慕う、そばに居てくれると思ってる、許してくれると思ってる。
夢遊病みたいじゃないか。
しかも滑稽なほど様式に依存している。
教会堂の荘厳な様相というものも、
贅を尽くした王宮などの傲慢さと何が違うというのだろうか。
宗教史なんかむしろ壮大な無慈悲と空疎そのものを示している。
異教徒を迫害しまくる暴力史でもある。
倫理の欺瞞が満ちている。他者への寛容ということがない。
宗教の影には不条理が張り付いていて、終わることなく諍いの元になっている。
しかも制御する方策がない。