愛を求める呼びかけ
私はYoutubeで活動されている奇跡講座のティーチャーのお話をよく視聴させていただいる。 この方のお話はとても明快でとても参考になっている。
先日、この方は奇跡講座に出てくる下記の言葉、「間違いはどれもみな、愛を求める呼びかけ以外ものでは有り得ません。」…T19-3-4 に拠って、自分のところに奇跡講座に疑念を持つ人が議論を吹っかけてきたけれど、それはみな「愛を求める呼びかけ」なのだとして、赦したと言われた。
その通りかもしれない。 しかし何か違和感もあった。
例えば、アパートに住んでいて、その人が自分では最高だと思っている音楽を音量最大にして聴いていたとする。 そこで隣の人がやってきて、「音がうるさいから静かにしろ!」と文句を言ってきた。 その時、「ああ、この人は愛を求めて呼びかけてきたのだ。赦そう。」と思っても、肝心の音量を下げなければ、ただの常識を知らない迷惑な人となってしまう。
「愛を求める呼びかけ」であることは間違いないのだろう。 そしてこの隣人が求めている具体的な愛の行動は、隣に住んでいる人を想って音を小さくするということなのだ。
もっと単純な話をすると、満員電車の中で誰かに睨まれたとする。 これも「ああ、この人は愛を求めて呼びかけてきたのだ。赦そう。」と思った。 でも実際はその人の足を自分が踏んでいたのだ。これは実に赤面するような話になる。
宗教を勧誘する人も、よくこんなことがある。 自分の信念が拒絶された時の心の避難対策として、この人はただ、「愛を求めて叫んでいる」だけなのだと思い込むのだ。 それはその通りだ。 「愛を求めて叫んでいる」のは間違いない。 そして確かにこう思うことで相手を憎しみの対象にしないことはできる。 しかしこの時点で自分は絶対に正しいという信念を持ち、赦しに愛がなければピントが外れてしまう。
この愛とはイエスが下記に言うように、相手の身になって具体的に考えることだ。 ただ、彼は間違っているけれど、この世の現象は幻想なんだから、赦してやろうということではないのだ。
「イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。
同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」。(ルカの福音書10:30~37)
これは有名な「善きサマリア人のたとえ」なのだが、興味深いのはこのサマリア人はこの強盗に襲われた人の詳細なシムレーションをしているということだ。 つまりその場だけではなく、その後のことも宿屋のことも、経費についても考えている。 ここに何か愛の具体的な示唆がある。
「愛を求めて叫んでいる」なら、まずその「愛」を与えることを考えるのが最も単純な方法でしょう?
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます