心の力を尊重する。ケネス・ワプニック Ph.D.
Respecting the power of the mind
Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=4A1Czl9rpFw
質問者:他の人との関係で、衝突が起きたときに自分自身を観察していると、相手の問題に引き込まれて、それを自分事にしてしまっていることに気づきます。一歩引いて中立的な立場をとって、相手が必要なプロセスを進めるのを赦すのではなく。
Kenneth: 考え方ですね。
つまり、常にあるべきなのは、この状況や人間関係において何かをする前に、まず自分自身を見つめることです。そして、他人の決断を尊重することも非常に重要です。それが自我的なものであったとしてもです。
ある意味、このコースを通してイエスが教えてくれるのはそういうことです。彼は常に、私たちが間違った選択をしたとしても、私たちの心の力を尊重するという考えを教えてくれます。彼は私たちを虐待したり、批判したり、罪悪感を抱かせたりしません。
彼は基本的に「あなたが再び選択するまで、私は辛抱強く待ちます。私の忍耐は無限です。」と言います。そして、他の人の心が自我を選ぶ力を尊重することが非常に重要です。なぜなら、彼らが誤った選択をする力を尊重しなければ、いつか正しい選択をするその心の力を貶めることになるからです。それは彼らの行いに同意するすべきだという意味ではありません。
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訳注:T.5.Ⅳ.11.4~
兄弟に対するあなたの忍耐はあなた自身に対する忍耐である。 神の子供は忍耐にふさわしくはないだろうか。私はあなたに無限の忍耐を示した。なぜなら私の意志は私に無限の忍耐を教えた私たちの父の意志と同じだからである。 神の声はあなたの中にあるように、私の中にあって創造主の御名により、一なる子に対し忍耐するようにと語っていた。
今度はあなたが無限の忍耐だけが即座に効果を生み出す ということを学ばなければならない。これが時間が永遠へと交換される方法である。無限の忍耐は無限の愛に呼びかけ今成果を生み出すことによって 時間を不変不要にする。
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愛に基づいていて、あなた自身の自我から来るものでない場合、行動として何かを言ったり、介入したりしないという意味でもありません。ただ、彼らの心が間違った考えを選ぶ力を尊重する必要があるという意味です。そうでなければ、彼らを救うことができる唯一のもの、つまり彼ら自身の心が自分自身を正す力を尊重しないことになるからです。
そして、そのための最初の段階として確実なのは、彼らの攻撃を個人的に受け止めないことです。これはとても、とても重要です。
彼らの自我に、あなたの中にある神の平和から引き離されないようにすることです。そして、あなたが内なる平和を保つことができる限り、その平和(それが真に神の平和であれば)は、あなたが困難を抱えている人を含め、すべての人を包み込むでしょう。
そうすれば、あなたは彼らを変えようという動機ではなく、彼らを愛そうという動機を持つでしょう。そして、彼らはその愛と優しさを体験し、「私もまた選び直すことができる」と思うようになるでしょう。これは、あなたにとって大切な人が、間違った選択をしていると見えるときに、特に難しいことです。
親は常にこれを経験していますし、教師もそうです。セラピストもそうです。つまり、人を助ける立場にある人は誰でもそうです。あなたが大切に思っている人が、他人や自分自身に害を及ぼすようなことをするとき、それは、繰り返しますが、介入しないという意味ではありません。しかし、もしあなたが自我から介入しているのなら、それは彼らを助けるためではなく、あなた自身を助けるためです。
もう一度言いますが、それを個人的に受け止めないことが非常に重要です。そして多くの場合、愛とは、人が自分の過ちを犯すのを赦すことを意味します。なぜなら、それが彼らが学ぶことができる唯一の方法だからです。もしあなたが彼らから過ちを奪うなら、特に子供たちの場合、それは彼らが最終的に過ちを犯さないことを学ぶことができる教室を奪うことになります。
親、教師、またはあらゆる種類の大人として、子供に対する最悪のことは、取り乱すことです。あなたが子供に対して怒るのは、しつけや毅然とした態度、制限を設けることとは異なります。あなたが子供に対して怒るとき、あなたは子供に「あなたは正しい。あなたは神を変えた。あなたはとても愛情深くて優しいママとパパを、あなたと同じように狂ってしまう人に変えた」と言っているのです。
「彼ら(ママとパパ)もあなた(子供)と同じように癇癪を起こすのだ」と。
それは子供にとって最悪のことです。なぜなら、あなたは子供に彼らの最悪の恐れが真実であることを証明しているからです。
あなたはこう言っているのです。「あなたは全能の自我を持っている。」それは自我の傲慢さです。「あなたは全能の自我を持っている。あなたは何ができるか見てみろ。あなたは全能だ。あなたは私を捉えて、私を叫び立てる馬鹿者に変える力を持っている」と。
誰かを怒らせるとき、あなたは神になったのです。あなたは他人を変えてしまったのです。そのことに対する罪悪感は非常に大きいです。なぜなら、それはあなたが開始した最初の変化を思い出させるからです。それは、自我が神を変えたときのことです。現実ではそうではありませんが、夢の中ではそうなのです。それが自我の夢の始まりです。現実には何も起こりませんでした。
神は夢については何も知りません。神は、怒り、罪悪感、罪深く、狂った息子については何も知りません。神は、ご自身と、ご自身の延長としての息子だけを知っています。それが神が知っていることのすべてです。神は完璧な一体性しか知りません。なぜなら、他に何も存在しないからです。しかし、私たちは本当に神を変えることはできないので、変えることができる神をでっち上げなければなりませんでした。
前の章でもこれについて語られており、私たちが神に特別な恩恵を求めたのに神がそれを与えなかったとき、つまり私たちが神に私たちの個性を認め、私たちを神から独立した分離した存在として認めるように求めた恩恵について語っています。神がそうせず、私たちにその特別な恩恵を与えなかったとき、私たちは神を愛のない父にした*、とこの一節は言っています。
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*訳注:T.13.Ⅲ.10
あなたは正気よりも分離の方を好んでいるが、 正しい心の中で分離を手に入れることはできない。 あなたは特別な行為を求めるようになるまでは、平安の中にいた。 その要求は神にとって異質のものであったから、神はそれを与えなかった。 そしてあなたは神の子を真に愛している父に対し、これを求めることはできなかった。 それ故にあなたは神を愛のない父親としてしまい、そのような父親だけが与えることのできるものを神に要求した。 そうして神の子の平安は粉々に描かれてしまった。 彼はもはや自分の父を理解しなくなったからである。 彼は自分で作り出したものを恐れたが、父と自分自身の栄光ある同一性を攻撃したことで、 自らの真の父をそれ以上に恐れることになった。
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言い換えれば、私たちは「わかった。この神はもう私には役に立たない。私は自分に都合のいい神を作る。怒る神を」と言ったのです。真の神は存在しないものを認識しないので、私たちは存在しないものを認識する神を作ったのです。つまり、私たちです。私たちは、頭の毛の数を数え、スズメや野の花よりも私たちを愛してくれる神を作るでしょう。
私たちは、罪を信じるが、罪から私たちを贖う素晴らしい贖罪計画を持っている神を作るでしょう。賢いでしょう? 驚くべきことは、人々がこれを信じてきたということです。しかし、人々がそれを信じてきたのは、それが、ユダヤ人、キリスト教徒、イスラム教徒、ヒンドゥー教徒、または無神論者であるかどうかに関わらず、誰もが信じている自我の思考システムだからです。誰もがそれを信じています。
イエスがこのコースで私たちに求めているのは、この思考システムがいかに不条理であるかを見ることです。どれほど罪深いか、どれほど恐ろしいかではなく、いかに不条理で、いかに馬鹿げているかを見ることです。だからこそ、彼は、これらすべてを見て微笑み、「これはありえない」と言う穏やかな笑いについて語っています。しかし、私たちは怒るたびに、誰かを批判するたびに、誰かの欠点を見つけるたびに、ましてや誰かに激怒するたびに、「そうだ」と言っているのです。
私たちは、この思考システムが真実だと言っているのです。唯一の希望は、誰かがあなたを真剣に受け止めず、あなたに力を与えないことで、別の思考システムをあなたに示すことです。
そして、もう一度、イエスをあなたのモデルとしてください。彼はテキストの早い段階で、「学ぶためのモデルとして私を受け入れなさい」*と言っています。さて、彼が私たちにとって非常に役立つモデルの一つは、このコースを通して彼が私たちにどのように接しているかを観察することです。彼は、何が間違いで何が間違いでないかについて非常に明確に述べています。非常に明確です。
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訳注:T.6.Intro.2
あなたは 私を学びの手本とするように勧められてきたが、それは極端な例は特に役立つ学習教材となるからである。
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間違いは罪ではないことを非常に明確にしています。彼が私たちに接する愛についても非常に明確であり、私たちが真実をあまりにも恐れている場合は間違いを犯すことを赦しています。
あなたがこれを読み進める中で、彼があなたを責めたり、あなたがワークブックを正しくやらなかったり、テキストを逆さまに読んで内容を理解せず、彼が言うこととは正反対のことをやったからといって、あなたを非難したり、非難するような気持ちになることは決してありません。
彼があなたを裁いたり、非難したりすることは決してありません。彼はテキストの早い段階で、「私はあなたが作ったものを尊重する。なぜならあなたが作ったからだ。私はそれが真実ではないから支持しないが、あなたが作ったものを尊重する」*と言っています。
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*訳注: T.4.Ⅲ.7
これまで自分が考えたことで、智識に対立するものは、すべて手放そうとする思いは、今まで一度も実際にあなたの心に浮かんだことがない。 あなたは幾千ものをそれの小片(かけら)を持ち続けており それが聖なるものが入ってくるのを妨げている。 光を遮断するために、あなたが作り出す壁を光が通過できず、また光はあなたが作り出したものを決して破壊をしようとしない。誰も壁を通して見ることはできないが、私は壁を避けて通ることができる 。 あなたの心を見張って、恐れの小片(かけら)に注意していなさい。さもなければ、あなたは私にそうするように頼めない。 わたしはわたし達の父が、私たちを創造したのと同じやり方でしか、あなたを助けることができない。 私はあなたを愛し、尊び、あなたの作り出したものへの完全な敬意を持ち続けているが それが真実でない限り、それを支持することはしない。
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そして彼が私たちに説明しているように、自我は自我が作ります。
霊は創造(create)し、自我は作り(make)ます。だから「私はあなたが作ったものを尊重するが、それが真実ではないから支持しない。しかし、私はそれを尊重する」と。そして、あなたはそれをあなたのモデルとして受け入るのです。
あなたの身近な人々や他の人々がする選択を尊重します。もしあなたが本当に愛情深い道具になりたいのなら、変化の道具になりたいのなら、意味のある変化は心のレベルでしか起こらないということを理解するでしょう。心のレベルでのみ起こるのです。
ですから、あなたは優しくこの人を導きたいのです。必ずしも言葉によってではなく、あなたのあり方によって。あなたの静かな無防備さは、多くのことを語ります。あなたの静かな無防備さは、相手に「私がしたのと同じ選択をあなたもできる。あなたには間違った心と正しい心がある。もう一度選びなさい」と伝えます。それがイエスがこの本のほぼすべてのページで言っていることです。
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