日本国民は15年間も戦争に駆り立てられ、1945年8月15日、戦争の恐怖からやっと解放された。310万人も死んだ。そのなかには幼いころの向かいの子もいる。太平洋戦争開戦の日、ぼくは満一歳の赤ん坊だった。一歳になっても立ち歩けず、表通りまで這出して旧八高生に面白がられていたそうだ。母から聞いた。当時のことはもう、いろんな記録で知るしかなくなった。おそらく「肇国の精神」を継ぐ天皇の赤子として可愛がられていたのだろう。ぼくが母の乳房にしゃぶりついていた頃、日本列島は「紀元2600年奉祝祭」に沸き立っていたという。親戚の出征兵士を家族一同が着飾って送り出す記念写真を見ていた記憶がある。
4~5歳のころ、名古屋大空襲のときの戦争の恐怖の記憶の断片は、すでに書いた。我が家は焼け出され、疎開先で、どん底の貧乏生活に放り出された。いなごもどじょうもハチの子も、たにし、わらび、きのこ、いたどりも、、、みんなごちそうだった。蛙を獲り鶏のエサや紙芝居を見る駄賃にもした。疎開先に進駐軍がジープできてチョコレートやチューインガムを配ったが、子どもたちは物陰にかくれ遠巻きにしてへんてこな帽子をかぶった米兵を見ていた。名古屋に戻った中学生のころになって、戦争への疑問がわいてきた。なんであんな戦争が起きたんや。戦争に負けて若い女性たちが米兵の「パンパン」になっている。情けない日本、この先はどうなるのか。はがみするような思いを抱きつつ、中学生のぼくは祝祭日の朝一番には「日の丸」を玄関先に掲揚していた。
山中恒の「子どもたちの太平洋戦争」(岩波新書)は、ぼくの子どものころの世相を再現してくれている。日本が米英に宣戦布告した翌年2月、政府は「大東亜戦争戦捷第一次祝賀行事」として、酒・砂糖・あずき・菓子の特別配給、国民学校の子どもたちにはキャラメルとゴムまりの特別配給をしたそうだ。頭っから「皇国の道」叩き込みつつアメも与えて国策に従わせていたのだ。
あんな戦争は2度としてはいけない。なぜ起こしたのか、そのことへの反省はどこへいったのか。学校はそういうことを教える場ではないのか。戦争を肯定する議論がむしかえされ、戦後教育の根本がぐらついている事態を見ていると、なぜかきょうは、いろいろと思いが巡り、「馬鹿な日本の私」でいいのか、自問自答した。日本国憲法9条が注目されている。9条を守ろうという運動もひろがっているという。なにかしなくては。
戦争が廊下の奥に立ってゐた 白泉
12月8日の赤ん坊年暮れる 愚句
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