「蕪村全集」七巻の「から檜葉」上下を読む。几董が編んだ蕪村追悼の句文集。蕪村が亡くなったのは天明三年(1783)十二月二十五日未明。68歳だった。墓所は洛東の金福寺。入口は狭いが奥は広い禅寺。寺の奥に芭蕉庵がある。49日の法要を終え編集した。
上巻には「おしてるや浪花江ちかきに生たちて」ではじまる蕪村の生い立ちと生涯、人間像、臨終・埋骨の模様を伝える几董の「夜半翁終焉記」と蕪村一門の句文集が掲載されている。「から檜葉」は、几董の「から檜葉の西に折るゝや霜の声」から取った題。「から檜葉」とは蕪村のことだろう。「漢(唐)」(から)は漢詩に熱中した蕪村、「檜葉」は「あすはヒノキになろう」という俗名アスナロのこと。日本特産の香木。すなわち芭蕉を師と仰いだ蕪村。「から檜葉」とはうまい表現や。
「終焉記」には、翁臨終の三句が紹介されている。冬鶯むかし王維が垣根哉/うぐひすや何ごそつかす藪の霜/しら梅に明る夜ばかりとなりにけり。「此三句を生涯語の限とし、睡れるごとく臨終正念にして、めでたき往生をとげたまひけり」。「我も死して碑にほとりせん枯尾花」の思い通り翁は金福寺・芭蕉庵に葬られた。下巻では杜口、蝶夢、不二、暁台、闌更、旧国、無腸、嘯山、蓼太ら当代著名人が句文を寄せている。写真は千里西町の千里局花壇、下は西町のマンション街界隈。
翌檜の花の春星見落として 昇竜子
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ノーやん
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