私、この時期になりますと、心待ちにしていることがあります。大抵、プロ野球の日本シリーズ直前です。
今年は、例年より早く、数週間前でした。英国時間で、朝8時から。ちょっと早めに起きて、ソワソワ、。
プロ野球、「ドラフト会議」です。ネットで観られます。始めから最後まで、きちっとすべて観ました。
それにしましても、プロのスカウトって、よく調べておられるなあと、感心。
それに、この頃は、指名される選手の所属校の幅が実に広く、全く聞いたこともないような学校の名前が読み上げられます。ことに、大学がそうです。昔みたいに東京六大学が大きな顔をしているなどということはないんですね。
例年なら、この会議、大ホールで、参加者が一同に会して行われるのですが、今年はコロナ菌蔓延という特殊事情のため、各球団ごとに一部屋あてがわれ、ズームか何かを使ってのことでした。
各球団の首脳みたいな人が、列席されていますので、ああ、これはあの人、とすぐにわかるんです。しかし、今年は、皆さんマスクをしておられ、すぐにはわかりません。王さん、原さんはわかりましたけれど。
なぜ、こんなものに興味があるのかと言いますと、すべてのことが、礼儀に始まり、礼儀に終わるという、非常に日本的な行儀の良さが、そこにあるからです。皆さん、スーツにネクタイ姿ですしね。
一度、本場アメリカのドラフト会議を(ネットで)観てみたいものです。こんなに、礼儀正しくはないと想像しますが。
そして、私が知りたいのは、アメリカでも、高校生に、何千万という契約金を出すのかということです。
まだ、日本のプロ野球に、ドラフト制度が導入される前の話。王貞治選手がプロに入ってきた頃のことです。春のオープン戦で、「読売ジャイアンツ:近鉄パールズ」という試合がありましたので、興味深く観ましたが、10:1で、近鉄惨敗。
その頃は、日本のプロ野球でも、チームによっては、これほど、力の差があったのですよ。今は、(ドラフト制度のおかげで)各チームの実力差が、昔ほどは大きくありません。実に隔世の感がありますね。
また、これも、ドラフトのなかった頃の話(いつも古い話でごめんなさい)。
私は、根っからの、パリーグファン。それも、西鉄ライオンズの熱狂的なファンでした。これらのこと、元はと言えば、10歳年上だった姉の影響です。彼女は、男前の大下弘に入れあげていたんですね。
その頃、地味なパリーグでも、とりわけ地味だった阪急ブレーブスに、私の好きなピッチャーがいました。その頃は、私子供でしたので、今にして思えば、ということです。
梶本隆夫さん。
彼、高校時代、岐阜の多治見工業ですでに勇名を馳せていたんです。当然ですが、それが3球団の目に留まり、「うちに来てくれ」。契約金の札束を振りかざしてね、、。1954年の話。
巨人200万、阪神100万、そして、阪急50万円です。普通なら、金額の最も多いところに行くんでしょうが、苦労人のお母さんの助言で、最も額の少ない阪急に決定。「もし、お金を沢山もらって、その年活躍できなかったら、会わす顔がない」。
お父さんは早くになくなったのですが、多治見で「梶本ミシン商会」とかいう会社をやっておられたので、梶本家は、そんなに貧しくはなかったと思いますよ。隆夫さんの育ちの良さを感じます。
結局、梶本投手、初年度、20勝をあげたのですが、残念なことに、新人王は、南海ホークスの宅和本司に持って行かれました。
宅和は、翌年も大活躍、2年で50勝という成績を残しましたが、その翌年から、全く勝てなくなり、数年後引退。
一方、梶本隆夫さんは、その後20年間、ずーっと阪急にとどまり、「阪急黄金期」を築く礎になられました。通算、254勝。立派なものです。ただし、負け数が255。「引退後、スナックバーでもやろうかと思っているんやけど、店の名前は”ワンオーバー”で決まりや」とは彼の言。
彼、最後の年、総負け数が総勝ち数より一つ多いのを見て取ったその時の監督、こう言われたそうです。「前半は負けているけど、後半にひっくり返せそうなゲームに、リリーフで出したるわ。負け数の方が勝ち数より多いというのは、ちょっと格好悪いで!」
それを聞いた梶本投手、「そんなことのために、他の人の勝ち星を奪うようなことはしたくありません」と言って、きっぱり断ったとか。
非常に温厚な、人格者だったそうです。残念ながら、物故者。
私の姉は、面食いで、能天気。
彼女さえいなければ、阪急ブレーブスこそ、私が応援するに相応しい球団だったと言えるでしょうね。