日々感ずることを、徒然に書いています。ご笑覧あれかし。

言葉というもの、非常に興味があります。

日本に帰りたい

2022-06-16 22:59:46 | 日記

日本に帰りたい。もちろん、一時帰国のことである。

 
もう4年も帰っていない。
 
2年前に帰るつもりで、切符を予約していたが、それがコロナウイルス蔓延の関係で、取りやめになってしまった。
 
その時は、軽い気持ちで、「そのうちに帰れるわ」と思っていた。
 
しかし、2年後の今も、コロナの暗雲はまだ去らず、「そのうちに」と言うのが、いつのことかわからない。
 
早くしないと、と苛立つ。
 
それは、私がそんなに若くないからである。
 
77歳。
 
今だと、なんとか帰れそう。
 
しかし、「もう少し状況が明るくなってから」なんて思っていると、その時は、もうそんな気力も完全に失せてしまっているかもしれない。
 
来年はどうか?
 
78歳。まあ、世の中の状況は、少しは改善しているだろうか。
 
しかし、来年には、私の気力が今よりさらに減退していることは、確かである。
 
人間が「老いる」とは、そう言うことなんだとは、最近気がついた。
 
これは、自分が、実際その年になってみないと、わからない。
 
75歳以上の人を「後期高齢者」と呼ぶのは、残念ながら当っている。
 
とは言っても、年をとることに、効用はある。
 
「世の中のいろんなことが、若い時より、分ってくる」と言うのが、まさにそれである。
 
人間、70歳を超えると、「自分もいつかはこの世の中からいなくなる」と言うことが実感としてわかる。
 
それまでは、抽象的な観念であったものが、具体的な実感になると言うことである。
 
そう言う視点から、物事を見ると、それは、若い時とは全て違って見えて、当然。
 
他の人のことに想いを馳せることができる。
 
昔、つまらない人だと思っていた人が、実は立派な人だったんだと気がついたり、。また、その逆の場合にも、気づかされたり、。
 
年をとることにこのような「いいところ」もあるが、もちろん、それは、老齢者特有の現象に対する代価である。
 
老齢者の現象といって、例えば、あらゆることに気力が減退するとか言うのが、まさにそれ。全ての機能も、また衰える。
 
いかなる人間も、一介の「生命体」であるから、その生命体がいずれ、この世から消滅すると言うのは、自然の道理である。
 
しかし、それにしても、それまでに、日本に帰りたい。
 
ちょっとだけでいいから。

Sのこと

2022-06-06 08:41:31 | 日記

彼は、Sと言った。

 
私とは、中学3年の時、クラスで一緒だった。それだけの繋がりである。
 
私の家とSの家とは近かったので、よく下校時、一緒に帰った。その頃、京都の中学校には給食なんてなかったので、昼時、それぞれの家まで、ご飯を食べに帰っていた。その時も一緒。
 
彼の家には複雑な事情があり、例えば、彼と、彼の2つ上のお兄さんとは、苗字が異なった。お父さんは戦死。仏壇にその遺影があるだけ。軍服姿のリュウとした紳士である。
 
しかし、そのお父さんの姓も、また違う。
 
お母さんはおられた。Sとそのお兄さんとは、そのお母さんと軍服姿のお父さんとの間にできた私生児なのだと思う。いわば芸者の子。
 
お母さんは、戦後、女手一つで、仲居をしながら、幼い二人の男の子を育て上げられた。立派なものである。また、どういう繋がりか知らないが、おばあさんという人がおられた。
 
Sの家は、貧しかった。だから、Sもお兄さんも、中学の頃から、アルバイトをしておられた。その頃、Sの家は、借家の2階。もちろん、大人2人と子供2人で住むには、狭すぎる。
 
しかし、そこには、温かい「愛情」というものがあった。私は、それに惹かれ、彼の家によく遊びに行った。
 
引き換え、私の家は、図体こそ大きかったが、また家系図もきちんとしていたが、そんなの、見掛け倒し。
 
「体裁」ばかり構う家で、私の家には、肝心の「愛情」というものがなかった。訪問客のまるでない冷たい家で、それが、私には、とても嫌であった。将来、人が来やすい家に住みたいと願ったのは、その所為である。
 
中学を卒業したのは、Sも私も15歳のときの昭和35年。その頃、京都の下町では、中卒で就職する生徒が、半数あった。高校へ行くだけの学力は十分にあったSであるが、母親思いの彼は就職という道を選んだ。三菱重工。しかし、こんな大会社に中卒で入ると、いくら優秀な人材であっても、将来の展望などというものはなく、前途は、入社時に決まっているのだそうである。
 
彼、数年で見切りをつけ、退職。後は伝手を頼って、京都西陣の帯会社に勤め始めた。最後まで大変優秀な社員であっただろうと思う。
 
彼は、私に随分優しかった。実にいろんなことをしてくれた。
 
ただ、それには、経緯がある。
 
中三の三学期に大阪遠足というのがあったが、このS、その費用(400円)が払えなかった。そこで、私、彼には何も言わず、それを払っておいた。彼、それがよほど嬉しかったのであろうと思う。
 
Sは、また、その後、自分自身の幸せな家庭にも恵まれた。通っていた夜間高校で知り合った女性と結婚。3人の子供を授かった。そして、それらの子供も結婚し、彼は、すぐにお祖父さん。
 
そうなると、彼の気になるのは、実にこの私のことである。一向に、結婚する様子がない、。
 
私に、「結婚せい、」といつも言った。「僕がこんなに幸せになれたのに、君は、どうして結婚しないの?」
 
会うたびに、いつも、こんな按配であったから、思いかねた私、ある時、意を決して、言うことにした。
 
「実は、僕、結婚などできる男じゃないんですよ、、。」
 
彼、そんなこと、思いもかけなかったようで、ちょっとビックリ顔。でも、その場では、「ありがとう」と言ってくれた。
 
ただ、その後がいけない。
 
彼、いつも私のことを「親友」だと思っていた様子であったから、少なくとも、「わかってくれるだろう」と思った私が甘かった。
 
それからと言うもの、私のことを「理解する」どころか、日に日に、よそよそしくなるばかり。
 
数年前から、京都に帰るたび、私、かつて、お世話になったことのお礼に、いつも、町中で、食事を饗応していた。
 
しかし、そんなこと、したくも、されたくもないのは、お互い様。「義理の付き合い」とは、まさにこのことである。
 
近年では、さらにその度合いが悪化し、二人の「気まずさ」は増す一方。
 
彼、私と「1対1」でいると、場が持たないものだから、中学時代の同級生(女性)を同席させる。もし、我々だけであるとすると、私の方をまともに観ないばかりか、敬語で話す。
 
「今日は、ご馳走になりまして、ありがとうございました。」
 
何て失礼なこと、しやはるの?私は、その貴方に会う為に来ているのに、、。
 
まあ、これで分かりました。
 
我々、子供の時に友達でしたが、実は、お互い、本当のところを知らなかったのです。まあ、お互いを買いかぶっていたにでしょうね。彼はまた、スポーツ万能でしたから、私、そう言う格好のいい人に憧れていたと言う節もあります。
 
それと、彼と私の性格の相違。
 
彼のお兄さん、福島におられるんですが、このSに言わせると、「福島て、なんにもあらへん」
 
私、これにはびっくり。
 
そりゃ、福島には、京都のように、お寺も神社も(沢山は)ありません。でも磐梯山と言う大自然があるでしょう。それに美しく素僕な人情があるでしょう。
 
また、Sさん、「大阪って大嫌い!」
 
これには、びっくりしてしまいました。大阪は、おそらく日本一、「生活保護の必要な人を受け入れている所」だと耳にしたことがあります。
 
要するに、Sさんは、京都にしか興味のないお人なんです。それも、北区とか上京区とか中京区、右京区とか。まあ、いかにも京都らしい綺麗な所。
 
そら、私と合わんわ。
 
私は、京都も、大阪も、福島も、栃木も、どこでも好きなんです。日本国中、京都みたいな所では困るでしょう。また、京都には、南区も伏見区も必要です。
 
Sさんのような人、京都に沢山おられますが、そんなこと言ってると、嫌われるのも当然です。
 
2年ほど前、Sさんに絶縁状を書留で送りました。彼、奥さんには見せておられないと思います。
 
私、彼を知らなかったのです、。