日々感ずることを、徒然に書いています。ご笑覧あれかし。

言葉というもの、非常に興味があります。

怠惰な一日

2021-10-31 08:41:40 | 日記

今日は10月30日、土曜日。外は曇天、小雨模様。

明日から、当地では冬時間が始まり、陽が、すぐに落ちます。

特にこれといった予定はなく、こうしてPCの前に座っていますと、ついつい「易きに流れ」、長編のユーチューブを、2本も観てしまいました。いずれも、日本がらみです。

下に行って、穴の空いたセーターの繕い物をしたほうが、いいということはわかっていましたが、この歳になりますと、そういう面倒臭いことは、後回しになるんですね。

私、非常に気の小さいおとこでして、「ああ、今日は何もしなかったな」と思うような日があるのは嫌なんです。散歩をするとか、本を読むとか、人様をおもてなしするとか、そういう、努力を伴う「何か」を、日に一つはしないと、気持ちが悪いんです。

どうです、気の小さい男だとお思いになるでしょう。

ですから、せめてもの罪滅ぼしに、こうして、文章を書いているというわけです。まあ、これだと、ある種の努力が要りますのでね。尤も、物を書くというのは、私の「好きな」分野。努力が要るといっても、大してことはありません。

観たユーチューブの1本目は、1988年10月19日の、川崎球場でのプロ野球パリーグ、因縁の「近鉄:ロッテ」ダブルヘッダーです。

これを観たのは、初めてではありませんが、何度観ても面白い。近鉄には、このリーグ最終戦2試合に優勝がかかっています。ただ、それには連勝しなければなりません。連勝して初めて、西武を抜いて、8年ぶりのリーグ優勝というわけです。

2試合とも、手に汗握る接戦でした。第一試合、近鉄が僅差で勝ち、次の試合も、この分だと勢いに乗り、勝つかなと期待していたのですが、惜しいところで、引き分け。仰木監督率いる近鉄バッファローズ、涙を飲みました。

こういう状況ですから、難しいことを言わずに、最後決着の付くまで、やらしてあげればいいのにと、素人の私は思いました。しかし、結局、延長10回「時間切れ」の引き分け。何か浪花節を聴いているみたいでしたね、最後は。

2本目は、戦後を代表する2大流行歌手、春日八郎と三橋美智也の業績の系譜を描いたものでした。お二人とも、キングレコードいうレコード会社に属され、「仲の良いライバル」であったそうです。

私が小学校低学年の頃、お二人ともデビューされ(春日さんの方が少し先輩)、私が日本を離れる頃まで、歌っておられましたから、今日聴いた曲は、だいたい全て知っているものばかりでした。お二人の、初めてのヒット曲、「赤いランプの終列車」1952年(春日)、そして「おんな船頭歌」1955年(三橋)は、共にいい曲です。

流行歌というのは、それを聴いていると、その時の日本の様子とか、自分がどんな生活をしていたかというようなことが如実に蘇ってくるんですね。お二人は、日本が、戦後貧しかった頃から、昭和30年を境に復興と繁栄に向かう頃に活躍しておられました。

ですから、まだまだ、私の脳裏に浮かぶ光景は、そんなに豊かなものではありませんでしたが、それでも、その時の自分から、今ある自分への変遷を考えることができ、感慨深いものがありました。

また、このユーチュブでは、歌手のご苦労はもちろんですが、その背後にある、作曲家、作詞家の、どのようにすれば、レコードが売れるだろうかとのご腐心がよくわかりました。とにかく時流に乗らなくてはなりませんのでね。

日本人は、とかく「過去を偲ぶ」というのが、好きみたいですね。尤も、それは「いいこと」に限っての話。逆に、「嫌なこと」は、「水に流す」そしてできるだけ「忘れる」。

今日は、怠惰な一日でしたが、おかげで、こんな文章が書けました。例によって、古いことですみません。

明日は、繕い物をしますね。

PS: 今年は、オリックスがパリーグの覇者になりましたね。おめでとう。私の好きな球団。かつての阪急ブレーブスと近鉄バッファローズの流れを汲んでいます。このまま日本一になってほしい。


朝はどこから〜(昭和21年)

2021-10-30 07:57:55 | 日記

(これは、一年程前、ドナルドトランプが、大統領選に敗れた時に認めたものです)

朝はどこから 来るかしら〜
あの空越えて 雲越えて〜
光の国から 来るかしら〜
いえいえ そうではありません〜
それは 「希望の家庭」から〜
朝が来る来る 朝が来る〜
「おはよう」〜「おはよう」〜

一夜明けて、清々しい朝です。

なんだか、ながらく悩ませられていた目の上の大きな「腫れ物」が、ポロリと落ちた様で気持ちがいいです。

私の住む国で起こった訳ではないけれど、何しろ、全世界に多大の影響力を持つ米国の首長が、罷免更迭されたのですから、世界の人の目は、自ずとそちらに向かざるを得ません。

米国にお住みの方ならば、なおのこと。共和党支持者の米国人でも、あのトランプでは困る、負けても仕方がないと思っておられる向きも、多くあるのでないのではないでしょうか。

米国との絆のことに強い日本では、やれやれと言うところところでしょうか。

そして、その後任の民主党バイデン氏がまた、筋の通ったことを言われる人で、私、個人的に好感を抱いています。これから、毎日でも、ジョーさんのお顔を見られるというのが、楽しみです。気持ちの良い朝が迎えられる。

ただ、これら申しあげましたこと、バイデンさんの政治的手腕とは別問題です(それにしましても、政治家ってタフですね。77歳で、あこまでできるのですから)。

これから、辛抱強く見守っていかなければなりません。

PS;上記の歌、終戦直後に歌われたものであることに、ご注意ください。


国情の違い

2021-10-29 07:38:51 | 日記

こういうのを、「国情の違い」というのでしょうか。
または「国民の認識の違い」といったほうがいいのかもしれません。

ある時、当地BBCのニューズを観ていて、ちょっと考えさせられることがありました。

ボビーチャールトン(Bobby Charlton)と言えば、英国では、誰知らぬ人のない、かつての有名なフットボーラーでした。日本で言えば、長嶋か、王みたいな存在です。
まだご存命で、目下84歳。

生涯、名門マンチェスターユーナイテッドのストライカーとして、華麗なゴールを、ファンに披露。永らくの間、そのクラブの、またイングランド国際試合の通算得点王として君臨しておられました。

1966年は、イングランドが、唯一Wカップで優勝した年ですが(イングランド開催)、ボビーさんはその時、ミッドフィールド(中堅)で活躍されています。

端正な顔立ち、寡黙で、地味な生活態度が、私、気に入っていました。

しかし、そのボビーチャルトン卿が、目下、「認知症」の状態におられるというのです。

私、そのBBCニューズの報道を聴いて、ちょっと、驚きました。

お歳からして、私の好きなボビーさんが、目下、認知症の症状を持っておられるということには、別に驚かないんですが、それを、BBCの全国放送で、堂々と放送するということに驚いたのです。

日本で、こういうことが起り得るでしょうか。

日本では、「認知症」というと、何か、恥ずかしいこと、(TVで)公言するようなことではないと思われているのではありませんか。

昔、アメリカ共和党のロ二ーレーガン大統領が、退陣を前にして、「自分は、どうやら、これから認知症になるようだ」と言っておられたのを思い出しました。

やはり、国情の違いでしょうね、こういうの。

フットボール(サッカー)の選手は、試合中にヘッディングと言って、頭でボールを突きますから、それに何らかの関連があるのかもしれません。

ああ、それにしても、ボビーさんのあのお顔が見られないのかと思うと、非常に寂しいです。


梶本隆夫投手(阪急ブレーブス)

2021-10-28 08:39:35 | 野球

プロスポーツマンで人格者といえば、私の頭に浮ぶのは、阪急ブレーブス(現オリックスバッファローズ)の梶本隆夫投手。

岐阜の多治見工業で、高校時代、すでに勇名を馳せていました。

卒業時、プロ3球団が「是非、うちに来て」と言ってきましたが、提示契約金の一番低かった(50万円)阪急に入ったんだとか(他は、巨人200万、中日100万)。

これは、彼のお母さんの助言。高い契約金をもらって、活躍できなかったら、会わす顔がないから、との理由からですって。

彼の家は、多治見の「梶本ミシン商会」とかいう、ミシン屋さん。可なり裕福だったのではないでしょうか。

でも新人で20勝を挙げているんですよ。ただ、新人王は取れず、南海の宅和本司に持って行かれました。

生涯阪急一筋。

私、根っからのパリーグファンで、それも西鉄ライオンズ。これは、単に、10歳上の姉が面食いで、男前の大下弘に入れあげていたから、というだけの理由です。

でも、今思えば、阪急ブレーブスこそ私に向いていた球団でしたね。地味だけれど、いいチーム。

梶本隆夫が立派な人間であることを示す、有名な話。

彼は、現役最後の頃、通算勝利数が254。しかし、敗戦数が一つ上回り、255。

そこで、その時の監督が、「勝てる試合の後半にリリーフで出て、せめて、負け数が勝ち数と同じにしたらどうだ?」と持ちかけました。

しかし、「そんな、他の人の勝利を、自分のために奪うようなことはしたくありません」と言って、梶本はきっぱり断ったとか。

西鉄は、稲尾和久に、ある年、42勝もさせたけれど、それは、当然酷使。稲尾は、それで終わりになってしまいました。

そんな球団嫌じゃ。


広島カープ

2021-10-27 04:46:52 | 日記

皆さま、日本のプロ野球、広島カープってご存知ですよね。

そう、広島にある、真っ赤っかのプロ球団です。

この球団は、日本の12球団の中でも、ユニーク。

まあ、正式には「広島東洋カープ」と言いますから、マツダの東洋工業が肩入れしているんでしょうが、基本的には、広島市民が持っている球団です。他の球団は、大きな企業が背後についていることは、皆様、ご存知だと思います。

それにこの広島のニックネームには、他の球団のそれと異なり、唯一、語尾に「S」がついていません。その理由はもちろん、CARPが鯉という魚で、単複同形であるため。

発足は、戦後の1950年。その前年に、日本プロ野球の2リーグ分裂話が出た時、広島にプロ球団を作ろうという機運が高まりました。「それは、いい。是非広島にもプロ球団を!」と話は急テンポでまとまりました。

もともと、広島は野球の盛んなところですし、それに何しろ、その5年前、広島に原爆投下。それによって、この町は、壊滅状態に陥り、県民の心も、疲労、荒廃していましたからね。何か、人々に希望を与えるものが欲しかったのです。

でも、新球団を、何もないところから新たに作るとなると、それはそれは大変です。

まず球場ですね。そして何と言っても「資金」です。選手は、その辺りからかき集めてきて、一年目がスタート。

監督には、太陽ロビンスから石本秀一を呼びました。しかし、この人は、監督とは言いながら、資金集めに翻弄され、四苦八苦。実際の指揮は、助監督の白石勝巳(選手兼任)に任せました。ちなみに石本も白石も、広島の人です。シーズンが終ってみると、もちろん、セリーグ最下位でしたが、勝率0.299。しかし、これは立派です。私、知らなかったのですが、この年に、長谷川良平投手がテスト生で入団、名古屋の人。すぐにエースにのし上がりましたね。

翌年も最下位。

しかし、4年目の1953年にはアメリカのマイナーリーグから、銭村兄弟(健三、健四)が入団。特に弟健四の活躍が著しく、やっと、万年最下位の汚名を返上できました。

資金面では、石本秀一懸命の奮闘にもかかわらず、何度も危い局面に立たされました。しかし、広島各市の支援、また、ぜひ広島の球団を存続させたいという県民の熱い想いに支えられて、消滅とか合併の危機は免れました。

画期的なことが起ったのは1975年です。

アメリカから、ジョールーツを監督に招聘。彼が、チームに新風を吹き込みました。「闘志をむき出しにしろ」というのです。

しかし、阪神との試合中に、ピッチャー投球判定を巡って猛然と抗議。それが元で、1ヶ月も経たずに退団してしまいます。ただ、皮肉にも、その後を継いだ古葉竹識が、また、私の好きな苦労人タイプの人で、カープを、なんと初優勝に導いたのです。創設以来、苦節25年。

日本シリーズでは、私贔屓の阪急に敗れましたが、ご存知の通り、後年日本一に3度輝いています。リーグ優勝9回。立派なものです。

私は、もともとパリーグファンですから、パリーグのチームは、まあ、どれも好きですが、阪急がなくなってしまいましたので、強いてあげるとすると、やはり阪急の流れを汲むオリックスかなあ、。柳田悠岐のいるSバンクも好きです。柳田は広島商業出身。

しかし、セリーグとなると、やはり、これほど辛酸を舐めてきた広島ですね、断然。
鉄人衣笠祥雄は、京都平安高校の超スラッガーでした。私の一年下。京都の試合でよく観ましたが、先年亡くなりましたね、比較的若く、。日米混血。

ちなみに。

上記、銭村兄弟のことを書きました。1953年、アメリカマイナーリーグから連れてこられた日系2世。彼らのお父さん健一郎さんが、広島からアメリカに渡られた人でしたから、これは広島という球団の特殊性かなと思いましたが、そんなことはありません。その頃、同様の経路で、日本に来られた日系二世のプロ野球選手って、多かったのですよ。その時は、大リーグから引っ張ってくるなんて、日本の野球レベルがまだ低かったし、それにまず経済的に不可能。また、日本語が片言でも、日系人だと違和感がなかったのでしょうね。

私の知っている、日系2世のプロ野球選手をあげてみます。

ウオーリー(要)与那嶺;巨人
ウエンデイ(敏雄)宮本:巨人
柏枝文治:巨人
若林忠志:阪神、毎日
与儀真助:阪神、大映
スタンレー橋本:東映
カールトン半田:南海
ビル西田: 東映

この中で、最も印象に残っているのは、カールトン半田。TVを観て、よく知っていました。半田は、南海の貴重なUtility Player(内野の何でも屋さん)、でも主に二塁手です。この人はいい選手でしたよ。噛みタバコをいつも口に服み、頬っぺたを膨らませていましたね。
この人です、優勝後のビールかけを日本に持ってきたのは、。ああ、もったいない、。

ご存命で、ハワイに住んでおられます。90歳。