日々感ずることを、徒然に書いています。ご笑覧あれかし。

言葉というもの、非常に興味があります。

開かれた男

2023-01-29 04:05:14 | 日記

私は、基本的に人を信用する人間である。

そんな手合いは、もちろん、昨今、インターネット詐欺師恰好の餌食。

この詐欺師たち、頭は非常に良く切れる。ただ、顔は絶対に見せない。そして、何より性格が悪い。多くの善良な市民の金を、うまく言って掠め取る。

そんなことで「生計」を立てていて、気持ちがいいのであろうか。税金を一銭も払わない人生、。

もし、彼らに子供がいるとしたら、子供の顔をまともに見られないのではないか。まあ、これらの詐欺師たち、その様な正常感覚は持ち合わせないということか、。

1960年代の英国で、列車大強盗事件と言う有名な事件があったのを思い出す。ロンドンからグラスゴーに向かう途中の現金輸送列車が10数人のギャングに襲われ、莫大な金額の古札が盗まれた事件である。

今時の詐欺師は、その現代版と言うわけであるが、うんとスマート。

ただ、こんな物騒な世の中になってしまったのは噴飯物、なんとも嘆かわしい。何しろ、人をおいそれとは信用できないときている。

知らない人でも、簡単に家の中に入れてしまう様なお人好しの私であるが、77年11ヶ月の今まで、そのために被害を被ったことはない(例外的に、一度だけ、ちょっとした金額を掠めとられたことがあったが、すぐに全額戻ってきた)。

それどころか、その「人を信用する」と言う性質に生まれついたことを嬉しくさえ思う。「人の懐に飛び込む」と言うのか。

この性格のために失ったものより、得たもののの方がはるかに大きい。変える気は毛頭はない。

これからも、あくまで、「開けた」人間で行く。まあ、私のこの歳では、変りようもないけれど、。

私のこういう性格のおかげで、随分、良い友達にも恵まれた。日本でも英国でも。

もし、私が、もっと注意深く、また「閉ざされた」人間であったとすれば、今の様なゆったりとした生活は望むべくもないのではなかろうか。いい友人も多いし、。

昔、日本にいた頃、電車で、たまたま私の横に座られた人と親交を結んだことを思い出す。謡の先生。

今では、まあ、さすがにそれはない。

インターネットが盛んになってせいぜい20年。世の中、非常に便利になったが、その反面、極めて物騒にもなってしまった。ああ、ヤダヤダ、。

今度、詐欺師から電話がかかってきたら、「一度どこかでお茶でも?」と誘ってみましょうか。

恥ずかし屋で、人前に出るのを極度に嫌われる人たちだから、電話を切ってしまわれるだろうなあ、きっと、。


惚れる

2023-01-26 07:35:22 | 日記

ある人が、ちょっと面白い質問をしてきた。

 
「あのう、ちょっとお訊きしてもいいですか?」
 
「、、ええっ、??、、、は、はい、、」
 
「XXさん、あなた、ご自分を客観的に見ることができるとして、ご自分に”惚れる”かもしれないということがあると思われますか」
 
あまりに唐突な、また意表をつく質問であったため、私、この時、迂闊にも、「うん、」と答えてしまった。
 
しかし、ここは、「わからない」というのが妥当であるとは、すぐに気がついた。その後、その質問主に訂正した。
 
だって、現実的に、自分を第三者の目で眺めることなど不可能なのである。
 
だから、もし、私のクローン(生き写し)が、私の目の前に忽然と現れたとしても、私がどう反応するかはわからない。
 
「生き写しだから、好き」だというのは、ちょっと解せない。また、逆に「、、、だから、嫌い」とも言えない。
 
要するに、「わからない」。
 
そして、今ある自分を、第一人者としてみる場合であるが、これは、我々が「自分」というものを考えるときの一般的なやり方、「自分とは何か」。
 
その「自分」をどう思うか、ということなら、少しはわかる気がするが、それにもわからないところがある。
 
ところで、ある人が、誰かに初見で「惚れる」というのは、実に特殊な感情で、一生のうちに、一度あるかないか、。
 
私の場合はそういうことが、一度だけであるが、あった。
 
人が、誰かに初めて会うとき、普通は「こんな人だったらいいな」という「理想像」を描いて臨むものだと思う。少なくとも、私の場合はそうである。
 
そして、目の前に現れた人が、その理想像に完全に合致したとき、ある現象が起る。「一眼ぼれ」である。
 
私の場合は、そんな塩梅であったが、この奇異な経験は、私の大事な宝物。今も大事にしている。
 
ただ、私が惚れたのは、あくまで、「第三者」に対してである。
 
というわけで、私、人が「自分自身に惚れる」というのは不可能であると思う。存在しない感情。
 
当然のこと、人間、いろんな困難を克服して研鑽を積み、また業績を上げ、然るのち、「自分に自信ができた」ということなら、よく分る。そして、そういう人は、まあ魅力的である。
 
しかし、そういう人でも、自分の足りないとか、弱いところとかは勿論知っているのであるが、そういうこと、普通、第三者にはわからない。
 
また、いくら仕事もでき、業績も十分上げられて、立派に見える人でも、それを鼻にかけるような人だと、それこそ「鼻持ちならない」。
 
自分のことを”肯定的に”捉えるのはいいけれど、「私、自分が好き」と言う人がおられたら、嫌われるのは目に見えている。
 
映画俳優とかの有名人は、遠くにいて眺めていればこそいいのだと、私は思う。
 
惚れてもいいけれど、「夢の世界」のことだと弁えてくださいね。

新年のご挨拶

2023-01-02 10:12:35 | 日記

皆様、新年あけましておめでとうございます。

 
私が住んでおります英国では、新年より、クリスマスの方がはるかに重要な日です。
ですから、元日といっても、休日であるということを除けば、ごく普通の日です。ただ、クリスマスから新年にかけては、英国の誰もあまり働きませんね。
 
という次第で、「旧年中は一方ならぬお世話になり、ありがとうございました。本年も相変わりませず、どうぞよろしくご鞭撻のほどをお願い申し上げます」
などという、新年のご挨拶は、一切致しませんので、どうぞお含みおきのほどを、。
 
昨年日本から帰ってきましたのが12月2日。実に3年半ぶりの日本旅行でしたから、私、すっかり疲れてしまって、それからというもの、放縦に任せ、だらだらとした生活を送っておりました。
 
しかし、いつまでも、そんな生活を送っているわけには行かず、ここにきて、やっと、年配者相応の暮らしはできるようになりました、お陰様で。
 
私、30歳で日本を出てから、10数回、日本に帰っておりますが、やはり、今回の帰国が、一番、私にいろんなことを考えさせてくれたと思います。
 
まあ、それは、私の77歳という年齢によるところが非常に大きいですね。人間、歳がいってくると、物の見方、感じ方が、若かった時に比べて、違ってくるんです。
 
これは、いいことだと思います。ものの本当のところがわかってくるというのか、。
 
さて、今回の日本旅行、、。
 
日本という国、食べることに関しては、まず問題がありません。
 
大体、どこで何を食べても、まあまあ美味しいですし、それでいて、そんなに高くもありません。
 
とは言いながら、私、意識的に、かなり高級なところにも行きました。2回。いずれも京都町中のこと。人様をお連れしたのですが、そういうのは、いつまでも覚えていますから、いわば、日本文化の教育ですね。
 
しかし、その全く逆のこともしたのですよ。今度は大阪。大阪は、京都の正反対のようなところで、京都みたいに体裁を構わない分、実質的。食事に関して言えば、非常に美味しくて安いんです。
 
大阪の新世界で食べた回転すしは、今でも覚えています。美味しかった。
 
京都の人で、よく「大阪って大嫌い!!」という人がおられます。
 
私、そういう京都人の言い分はわかります。中学時代の同級生で、非常に仲の良かった人がおられたのですが、その人が、そういう狭量な京都人の一人。結局、その人とは、袂を分かちました、私。
 
私思うんですが、日本という国、京都みたいなところばかりでは困るでしょう。また、その反対に、大阪みたいなところばかりでも困ります。
 
京都も大阪も滋賀も福井も、また東京も、名古屋も、神戸も、仙台も、九州も北海道も全て必要です。
 
大阪の西成に、私、ちょっとした知り合いがありましたので、その方のお宅にお邪魔しました。私にとりましては、これは、大いなる社会勉強です。
 
しかし、西成といっても、天下茶屋という、「西成度」の比較的低いところでしたので、釜ヶ崎とかがある「愛憐地区」ではありません。
 
私、神戸に姉がいます。私より11歳上の88歳。ですから、今年も、また11月日本に行くと思います。
 
その時は、ぜひ「愛憐」にも、。
 
どなたか、すみませんが、私を連れて行ってくださいませんか、。