limited express NANKI-1号の独り言

折々の話題や国内外の出来事・自身の過去について、語り綴ります。
たまに、写真も掲載中。本日、天気晴朗ナレドモ波高シ

life 人生雑記帳 - 51

2019年10月15日 16時33分32秒 | 日記
第5章 社会人白書 〜 薩摩の国へ

新入社員歓迎会で酔い潰れた僕は、軽い頭痛で眼を覚ました。Tシャツにトランクス姿で派手なダブルベッドに寝ていた。着ていた服は、丁寧に畳まれて水色のソファーの隅に置かれている。「此処は、何処だ?」眼鏡は枕元に置かれていた。「Y,お目覚めかな?」後ろから声が飛んで来た。振り返ると、酒井和歌子先輩があられも無い姿で微笑む。上は、白のキャミソールだが、ノーブラでピンクのパンティ1枚と言う格好である。「シャワーを浴びてな!あたしも後から行くからさ・・・」どうやらお持ち帰りになったらしい。こうなると、行き着くところまでは、規定路線だろう。やたらと広いバスルームで、シャワーのカランを捻りバスタブには湯を張った。やがて、和歌子先輩が全裸で入って来た。細身だが均整の良いプロポーションだ。シャワーを浴びながら「Y,知らないとは言わせないわよ!男と女が何をするか?分かるでしょ?」乳房に手を触れさせると、キスをして来る。後は成り行き任せだった。3回戦を終えると「真面目な顔してる割には、慣れてるじゃない!それなりに遊んで来たな!」と笑顔で言われる。「まあ、知らない訳じゃありませんから」と返すのが精一杯だった。「もう1回シャワーを浴びよう!綺麗にしてあげる!」先輩にバスルームに連れて行かれると、お互い洗いっこをした。「Y,あたし綺麗?」改めて和歌子先輩が聞いて来る。「はい」「気に入った!今日から弟分にしてあげる!お姉さんの身体、好きにしていいよ!さあ、触って!」小ぶりだが形の良い乳房に左手を触れさせると、右手は下に導かれる。「まだ、元気じゃん!後ろから突いて!」彼女は底無しだった。帰りにホテル代を払おうとすると「ダメよ!お姉さんの顔を立てなさい!」と言われて、オゴリにされてしまった。迎えの車は、もう1人の酒井である酒井保美先輩が運転手だった。「和歌子、どうだった?」「うん、合格だよ!あたしの弟分にして、オモチャにするの!」と言うと「やったね!和歌子も遂にオモチャを手にしたか!Y,これからは、あたし達がバックアップしたげるから、安心しな!」と言って車を走らせる。この日を境にして、女性社員の先輩達が何かに付けて助けてくれたり、口添えをしてくれる様になり、仕事が格段にやりやすくなったのは確かだった。彼女達の“試験”に合格した事で、僕は職場に急速に溶け込んで行った。

卒業式から僅か1週間後に始まった新入社員研修は、高原地帯での合宿で幕を開けた。久々の“大量採用”と言う事もあり、精鋭達が集って居た。長官や久保田も“同級生”から“ライバル”に変わった。普通高校故のハンディなどあるはずも無く、実力が全てを決める世界である。専門学校や工業高校出の同期に立ち向かうには、自らの“腕”を磨くしか無いのだ。僕の配属先は、金属部品を加工するプレス部門になった。全てを1から教わらなくてはならないだけで無く、1回で理解して付いて行かねばならないのである!最初の2週間は、付いて行くだけでもしんどい日々が続いた。「ここは、息抜きでやるラインだから楽勝だよ!」と保美先輩に言われても、僕には息つく間もない程の忙しい工程だったりして、機械に煽られる始末に陥ったりしたものだった。1通りの現場研修が済むと、今度は“段取り”と呼ばれるプレス機への型のセッティング作業を叩き込まれる番になった。「最初は、見てろよ!次は自分でやるんだからな!仕事は盗んで覚えるもんだ!人に寄ってもやり方は違う。自分のやり方は、自分で極めろ!」と言われて、ひたすらに実践が繰り返された。無論、寸法や精度も出してやらねばならない。あらゆる測定器や測定方法も覚えなくてはならない。平面度や直角の出し方は、殆どの場合“勘”が頼りだった。「後、0・02踏み込め!」と言われても、ほんの僅かな微調整で“狂い”が出るシビアな世界である。それを、言葉で説明するのは非常に難しく、身体に覚えさせるしか無かった。「“筋”はいい。後は経験を積んで覚えて行け!」指導を担当してくれた日向さんは、良くそう言った。「工業高校出だと、自分の“我”が邪魔になるが、お前にはそれが無いだけ、教えがいはあるな!」同じく、大型機担当の下村さんもそう言った。要は“なまじ経験がある”と勝手に突っ走るが、僕には裏打ちが無いから、必ず確認してから仕事を進める。つまりは、“不良を大量に作るリスク”は少ないと言うのだ。プレス機の操作にも慣れて、ある程度「任せられる」と踏まれた部品の加工段取りは、次第に僕が自身で判断して進めて良い事になり、次第に扱う部品点数も増えた頃には、パートタイムの女性社員を付けられて、その人を如何に使って行くか?も僕が判断して良い事になった。忙しくなると、日向さんからも応援要請が来る。その隙を縫って次の段取りを組んで、ブランク(総抜きと呼ばれる全体の形を大まかに打ち抜く工程)が間に合わなければ、自分でプレス機を回して素材を確保する。仕上がった部品が溜まれば籠に移してフロンで洗浄すると(1984年当時、フロンでの油脂洗浄は当たり前だった。今では絶対に不可能である)計数か次工程へ送り込む。関わる人々は多く、“どの部署の誰か?”も覚えなくてはならない。そして、自分の仕事もテンポ良く回して行かなくてはならない。瞬く間に3か月が過ぎて半年が過ぎた。気づけば一応の戦力として“計算される立場”になっていた。それでも、技術で劣る僕は貪欲に“腕”を磨いた。ライバル達は数歩先を行っているのだ。唯一無二の存在にならなければ、彼等には追い付けない。僕は、日々の一瞬一瞬に賭けた。やがて、自分の“腕”がモノを言う時がやって来た。

機種は忘れてしまったが、“MU地板”と言う部品でトラブルが発生して、大きな問題に発展してしまった事がある。別の金属部品をカシメる(金属の軸を通してから押しつぶして固定する事)際に動きが悪くなり、ミラーが復元しないと言う問題だった。肝心の穴径は、±0.05の公差が設定されており、素材段階ではプラス上限のピンゲージが“自重落下”する事が定められていた。後工程は“窒化処理と塗装”だった。「Y、寸法管理は指示通りにやってるよな?」日向さんが確認を入れに来る。「ええ、ご覧の通りです」僕はピンゲージが自重で落下する様を見せた。「そうなると、処理後に穴径が小さくなってるとしか考えられんな!向山が来るはずだから、型をセットして“実験”に協力してやれ!なーに、この間の事は忘れてるさ!」僕は直ぐに段取りを替えて、ブランクも用意した。“この間の事”とは、向山さんを怒らせた事だった。2週間程前に、ちょっと生意気な口を聞いたのが気に要らなかったらしく、それ以来無視されていたのだ。「アイツは“瞬間湯沸かし器”だからな。そろそろ湯も冷めてるだろうし、事が事だからケロリと忘れてるだろう!付き合ってやってくれ!」日向さんはそう言って笑ったが、僕は緊張していた。程なくして向山さんが、数本のピンを持って現れた。「Y、悪いがサンプルを3種類ばかり作りたい。手伝ってくれ!」彼はすっかり前回の事を忘れたかのように言った。「じゃあ、最終工程直前までに120個ばかりあればいいですか?」と聞くと「上等だよ!俺はピンを替えるから、工程を進めてくれ!」と言う。向山さんと組んでの作業が開始された。0.02ミリ単位で穴径の大きさを換えた試作品を50個づつ製作して、問題の穴径を測る。「全部自重で落下しますね。プレス素材としてはOKですが、何が違うんです?」と聞くと「0.02ミリ単位で穴径を大きくしてあるんだよ。窒化処理の結果次第だが、どうやら大き目に作らないと相手部品がスムーズに動かないらしい。ただ、これ以上大きくすると“ガタつき”が出る可能性もある。ギリギリを狙って結果が出れば事は済むが、もしダメなら相手部品や軸もいじらないといけない。俺の見立てでは、0.04ミリ穴径を大きくしてやれば、窒化処理後に寸法が安定すると見てはいるが・・・」向山さんも手探り状態だった。「型に“突き当てピン”を追加して深く入らない様にするのは?」僕が何気に言うと「うーん、やはりそれは必要かもな。どっちにしても、デカクするんだし穴径を安定させるには改造は不可避だろうな。Y、在庫は大丈夫か?」「リーマーで修正したヤツでしばらくは持ちますよ。窒化前で止めてある在庫があるんで、切れる心配はありません!」「よし、型を外してくれ。必要な改造を進めて見よう!窒化処理に8時間、アッセンブリーと試作に2日はかかる。その隙に済ませとくよ!」向山さんは型を持って引き上げて行った。それから4日後に結論が出た。向山さんの“勘”は当たりと出て、穴径と寸法公差が改定されたのだ。“MU地板”は早速大車輪で加工を進めなくてはならない最優先部品になった。だが、肝心の最終工程の型が上がって来ない!僕等は止む無く、最終1歩手前までの加工を優先して進めて、型を待った。その日の昼休み。向山さんがようやく型を持って来たが、同伴者が付いて来た。同期の工業高校出のヤツだった。「Y、悪いが早速テストにかかりたい。まずは、コイツの作ったピンで穴径を確認してくれるか?」「やりましょう!夕方までには、窒化の釜へ入れたいので!」「Y、頑張りな!」保美先輩からチョコを口に押し込まれると、僕はプレス機に型をセットした。10個程を加工すると寸法測定に入る。「“寸法通り間違いありません!”って言って譲らねぇんだよ!」と彼は苦虫を噛み潰したように言う。「どうだ?」日向さんも下村さんも気になったのか、結果を見に来た。「僅かですが、引っかかりがありますね。バリも大きい」僕の判断に同期は色をなして「そんなはずは無い!セットミスじゃないのか!」と食って掛かって来た。「Y、言う通り僅かに小さくねぇか?バリも高めに出てるし、バレル時間を長めに取ってもこのバリは取り切れない恐れがある!」と日向さんも僕の意見を支持した。「刃の付け方が甘いな!追い込んだりしたら、ガタの原因になるぞ!」と下村さんも言った。「どうだ?俺の言った通りだろう?お前さんのピンは、0.01ミリ単位で違うんだよ!日常的に穴径やバリの立ち具合を眼で見てる人間に誤魔化しは通用しないんだ!数十万個の加工を手掛けたY達の触覚は侮れないんだよ!コイツの指先を納得させられるモノを作るのが俺達の仕事なんだ!Yを甘く見てると足元をすくわれるだけだぞ!」同期のヤツはうな垂れて言葉を失った。「Y、後15分くれ!ピンを戻して調整をやり直して来る。コイツにはいい薬になっただろうよ!休んでるところを悪かったな」と言って向山さんは引き上げて行った。「どうだ?少しはいい気分だろう?」「同期の鼻をへし折ったんだ。こう言うところで“現場の強み”は出る。アイツも内心穏やかじゃないだろうな!」日向さんと下村さんがニヤリと笑う。初めて同期と肩を並べられたと実感した瞬間だった。

就職したと言う事は、地元に残る=消防団・青年団などの厄介な組織に組み込まれる事を意味する。案の定、それらは雨あられの如くやって来たのだが、残業や休日出勤が多い事から活動への参加は事実上不可能に近かった。優先順位は仕事であり、和歌子先輩との“遊び”にあった。それらの隙を縫って、僕は東京へも頻繁に出かけた。滝が専門学校へ通うために大田区の蒲田に下宿していたのだが、遊ぶカネが無かった。そこで、財布を持って出かけて行っては、レンタカーを借りて都内をドライブして遊びまわったのだ。宿泊先は彼の下宿に泊めてもらい、諸々の費用はこちらが出す。日頃の憂さを晴らすには、お互いの利害は一致していたのだ。基本給は、安かったが残業代と休出でそれらの費用は楽に捻出出来た。高速バス代は特急料金よりも安かったし、都内での移動手段はいくらでもあった。秋葉原や神田で電気街や古書店巡り、高速道路で“中央フリーウェイ”を実体験する。車のショールームを巡っての試乗会などなど、都心ならではの遊びを満喫したものだ。オリジナル選曲に寄るカセットテープの作成企画などもあった。地方では中々手に入らないメタルテープなどは、東京から買い付けるしか無かったからだ。これらが無ければ仕事は続かなかったに違いない。無論、消防団・青年団などの厄介な組織は、あの手この手で引き込もうと必死になったが、それ以上に僕は逃げ回った。定時退社日でも、家に帰るのは午後10時以降にして車で田舎道の探索をしていたし、休日は、和歌子先輩からの呼び出しが来るのだ。ともかく、自宅に居座る事をしなかった事で、厄介な組織の魔手からは逃れる事に努めた。僕の同期の中にも、わざわざ会社の寮へ入り厄介から逃げ出す者達は多かった。彼等に共通していたのは「自分の自由な時間を奪われたくない」と言う共通の認識だった。確かに、消防団や青年団に関わると、何かしらの行事に付き合わされて、休日を“無意味に奪われる”か“ギャンブルにはめられる”のだから、率先して付き合いを保つ意味が無かった。やがて、交代勤務に組み込まると、厄介な組織も手を引かざるを得なくなった。夜勤明けで、引きずり回すのは流石に気が引けたのだろう。最も、次の時代は“金属からプラに部品の主役は変わる”と読んだ僕の“勘”が当たった事もあるのだが・・・。

光陰矢の如しでは無いが、1年目はあっという間に過ぎ去って後輩たちが配属されて来ると、僕等はそれぞれの持ち場立場で“欠かせない戦力”になっていた。そして、この年の春先に困った注文が入って来た。開発コード“5AB”ポラロイドフィルムパックをベースにした特殊カメラで、3年から4年に1度しか部品を作らない“特殊中の特殊機種”だ。月産は、無い月の方が多く完全受注生産上に、全てが手作りと言う変わり種であった。故に1000台分の部品があれば、3~4年は持ちこたえてしまうのだ。前回の生産は、僕の入社の前年で、今回は早く切れた方だと言う。ラインからの要求は2000台分だったが、表面処理や次工程での不良を見込むと、素材ベースでは2500台分を確保しなくてはならない。部品点数は少ない方だが、プレス加工工程は意外にも長いモノが多く、手間と人手がかかる上に、引き継ぎ書と図面を持って前任者に聞かないと分からないと言う“いわく付き”であった。幸いにも、前任者の北原先輩は隣の棟に居り、全容解明は比較的に容易ではあったが、問題は“誰が主担当”になるか?だった。「Y、にやらせるのが順当だろう。頭が柔らかいヤツにやってもらわんと、型の判別すらおぼつかない」日向さんはミーティングでそう主張した。「よし、材料の手配はこっちでやってやる!ブランクから含めて、Yの腕に賭けよう!」リーダーの小松さんも同意した。「1機種を通しで担当するのは、いい機会だ!Y、デカいモノは手伝ってやる!お前の真価を見せてくれ!」下村さんもそう言って背を叩いた。こうして、“5AB”の生産は僕の双肩にかかって来たのだった。それからは、本当に大変だった。ブランクから曲げ1工程で済む部品はなるべく後へ回して、次工程のある工数の長い部品を優先させたのはいいが、数年に1回しか生産しない関係上、型のオーバーホールから始めなくてはならず、思った以上の苦戦を強いられた。後工程からの要請もあり、3000台分を加工する事に変更されたのも大きかった。他の部署でも同じ事ではあったが、精度が厳しい部品も多々あり、追加要請は2度に渡って上積みされた。「普段はやらないに等しいヤツだからな。みんな忘れてて当然さ!工程を間違えたり、落としたりと一筋縄では終わらないのが“5AB”の悪魔たる所以さ!」北原先輩も七転八倒したと言っていたが、正に“いばらの道”であった。1ヶ月半の苦闘の末に、何とかやり遂げた次は“引き継ぎ書”の作成が待っていた。型を1台づつ丁寧に油で防錆処理して、部品名と工程順を書き入れてしまい込み、サンプルを添付して分かりやすく図解して行くのだ。この作業が意外にも地獄だった。北原先輩が作成した“下敷き”はあったが、自分なりに工夫したり苦労した個所は、細大漏らさずに記載して置かないと後で必ず自分に跳ね返ってくる。最終的に決着が付いたのは2か月後だった。“5AB”の生産はその後もしばらく続いたが、次の生産は4年後になり、僕は夜勤明けで引継ぎと説明に追われる事になった。“忘れた頃にやって来る悪魔”としては、サービスパーツもそうだった。生産終了から7年間は、部品を揃えて置く必要があったが、“5AB”同様に500~1000台分を確保するのに、苦労が絶えなかった。後に、量産が軌道に乗った際や最終生産時に、サービスパーツを上乗せする方式が取られる事となり、予期せぬ発注が出る事は少なくなったが、機種に寄っては、生産完了後10年を経過しても“補充部品”の生産が継続されるケースも無くは無かった。“5AB”をやり切った事で、僕の存在はより大きくなり、新機種の試作も任される様になった。新人教育は当然の役目として申し渡されたし、日々の進捗管理や後工程との連携も担う事になった。

しかし、順風満帆は長く続かなかった。いわゆる「αショック」がカメラ業界に激震をもたらしたのだ。この年にミノルタから発売された“α7000”“α9000”シリーズは、爆発的なヒット商品となり、本格的なAF1眼レフの先駆けとなっただけで無く、業界の勢力図を一気に塗り替えてしまったのだ。それまでのMFレンズとの決別、専用の新マウントと共に開発されたAFレンズとの高度な通信機能を備え、露出やフラッシュの照射角度までコントロールする高度な電子回路。従来のMF機とそれほど大差ないボディ体積や精度の高いAFは、歓喜を持って市場に受け入れられた。実は、ミノルタの社内プレゼンでは、“バカチョン1眼レフなど売れるはずが無い”とこき下ろされ、開発チームはけちょんけちょんに言われたとの話だったが、蓋を開けてみると、発売と同時に品切れ状態に陥るほどの勢いで売れまくり、ミノルタは増産に大慌てになったのだ。AFレンズも徐々に本数を増やして行き、年末には“勢いは本物”と言う認識業界にが広まった。他社もこれを黙って見過ごすはずは無く、急ピッチで追随機種の開発を加速させて行った。僕の会社も当然、“α7000”を手にして分解して徹底的な解析を行ったが、“MFレンズとの互換性をどうするか?”で壁に突き当たった。既に市場には、万単位でMFレンズが出回っており、これらとの互換性が無ければ、システムとして真っ新の状態から開発をしなくてはならないのだ。商品企画や開発部隊は焦りを隠さなかったが、結局は新マウントを開発せざるを得ない状況を悟った。しかも、ゼロからの追随である。“α7000”の弱点を突いて機能の向上を図るのは当然だが、どうやっても1年半はかかる大仕事になるのは明らかだった。「αショック」の影響で在来機種の売り上げは下降線をたどり、生産量も調整を余儀なくされた。この事は、人員配置に直結した事であり、半年後には200人前後の“余剰人員”を生み出す事になった。“α7000”の追随機種の生産が軌道に乗るまでの間、200余名を遊ばせる事は不可能だった。しかし、ここで“救いの神”が手を挙げた。鹿児島の国分工場である。電子部品の受注が好調な国分工場では、慢性的な人手不足に悩まされていた。ここで両工場の思惑は一致した。約200人の余剰人員を受け入れる方向で、国分工場は人員の派遣要請を本社に願い出たのだ。本社は、様々な角度から検討した結果、半年間の“長期出張”扱いを認め“国分派兵計画”は承認されたのだ。僕の工場では、密かに人選が進められ、50人単位で4隊を編成、翌年の4月から順次派遣すると国分工場側に通告をした。「Y、鹿児島に“長期出張”させる話、聞いてる?」僕の腕の中で和歌子先輩が言う。「あちこちで噂は聞いてますが、具体的には何も聞いてないですよ」ダブルベッドに全裸で腕枕をしつつ僕は返した。「置いてくなよー!あたし、Yと遊べない世界なんて信じられないから!」彼女は急に僕の胸に顔を埋めると、必死にしがみついて来た。「2年目の若造に国分はありえないでしょ!僕も先輩のいない世界は信じられませんから!」と言うと優しく抱きしめた。時折、こうして抱き合うが、和歌子先輩の身体はすっかり僕に慣れ親しんだモノになっていた。「Y、作っちゃおうか?今まで避妊はして来たけど、この際、手段は選んではいられないからさ!生でしようよー!」彼女の我がままが炸裂した。「このところ、生でしてますが、出来た兆候は無いんですか?」「全部白なの!だから、本気出してよー!」彼女は馬乗りになると腰を使いだす。「今度こそ、モノにするからね!Y、ドレス着られる内にゴールするよ!」和歌子先輩は必死になったが、何故か僕との間には“出来なかった”のである。そして、年が明けた1月の末に僕は“第二次派遣隊”に選ばれた事を部長から通知された。「時期が来たらまた指示するが、覚悟は決めて置いてくれ!」部長は笑って言ったが、僕は暗澹たる気持ちで部長室を出た。

2月も半ばになると、“派遣隊”に選抜された者に対する説明会が数回に分けて行われた。“派遣隊”の構成は、製造部隊に留まらずに総務からも選抜者が居た。勿論、男女の差は無かった。ただ、若手中心で年寄は“お目付け役”的な人選がなされていた。僕等の世代は否応なしに中心に位置づけられており、およそ半数が“派遣隊”に選ばれていた。1次から4次までの“派遣隊”は1ヶ月毎にまとまって出発し、半年間鹿児島に滞在する予定だった。僕は5月6日に出発する2次隊なので、11月の始めまでの任期となった。1次隊からの情報を元に準備が出来るのは朗報だったが、いずれにしても生半可な事では通用しない世界へ送られるのだ。不安だけが脳裏をよぎった。「片腕を持ってかれるんだ!俺は死ぬ気でやっても支えられるか心配だよ!」工場に残る日向さんは、そう言った。「行も地獄、残るも地獄!お前が無事に帰ってもここが残れば御の字だな!」下村さんも自虐めいた事を言う。「何で北原が行かないのよ!Yを行かせるなんて酷だわ!あたしも付いてく!」和歌子先輩は半狂乱であった。「体積の問題で、北原は飛行機に乗れないのよ!悔しいけどYを行かせるしか無いでしょう?浮気するような子じゃ無いから、ちゃんと和歌子の元に帰って来るわよ!」保美先輩がなんとかなだめにかかる。「半年も居ないなんて考えられない!Y、直ぐに助けに行くから電話寄越しな!お姉さんから離れないでよ!」廊下の片隅で和歌子先輩が泣きながら訴えた。「夏休みには帰って来れますよ。それは、保証されてます。必ず戻りますから、先輩こそ浮気しないで下さいよ!」僕は軽くハグをすると泣いている彼女を納得させようとした。「嫌よ!嫌よ!」彼女は泣いて泣き崩れた。成す術無く時は過ぎて、4月に突入すると第1次隊が出発した。彼らは新入社員の顔も見ずに旅立つ事を余儀なくされた。そして、2週間もすると、僕等第2次隊に向けて“情報”を送って来た。「予想を超える暑さと、水が合わないから腹を壊す者が続出か。予断を許さないな」「“味噌と醤油は持参しろ!”って言っているらしい。食事でも苦労があるらしいな」僕等は小声で情報交換をして、青ざめた顔を突き合わせた。「交代勤務に放り込まれるらしいぞ!思っている以上に過酷な勤務になりそうだ!」寒冷地で育った僕等にとって、暑さは致命的なダメージを追うことになりかねない。鹿児島が氷点下を余り知らない様に、僕等は猛烈な暑さと湿気を知らない。冷房はあるだろうが、どんな世界が待ち受けているのか?不安は更に増した。だが、恐れてばかりはいられない。「行かないと分からない事もある。まずは、着任してからだな」僕がそう言うとみんなが頷いた。荷造りも引継ぎも日を追うごとに急がねばならない。日向さんに対する引継ぎでは、僕が専任して担当していた機種の部品に関して、事細かに伝えて行った。「無事に帰って来るのよ!アンタはあたしの息子も同然なんだから!」根橋さんが言う。入社以来、ずっと背を見つめてくれていたパートさんだ。「帰ってくる頃には、霜が降りてますね。寒さと共に戻りますよ!」作り笑顔で言うと「アンタなら大丈夫!心はいつもここにあるからね!」と言って顔を背けた。肩が微かに震えていた。大型連休に入る前、和歌子先輩から呼び出しがあった。「Y、必ず戻りなさい。あたし、待ってるから」そう言ってネックレスを僕の首に着けた。「あたしの印だよ。これで、誰も手出しさせない!」そう言うと唇を重ねていつもの事をし始めた。彼女を抱くのは、当分お預けになると思うと僕もつい熱が入る。「Y、結婚しようね!あたし、決めたから!」一通りが終わると、和歌子先輩が真顔で言う。「うん、そうする。だから、必ず戻る!」細い彼女をしっかりと抱きしめると僕もそう言って誓った。「Y!Y、あたし、女の子が欲しいの。きっと可愛い子を授かるよ!」「それがいい。美人さんになるな。そして、大酒呑みにも」「あたしの血が流れてるから必然的にそうなるね」和歌子先輩は微かに微笑んだ。別れ際「行くからには、存分に働いて来い!Yならどこに居ても通用するだけの実力はあるから!」と言って励まされた。「Y、見送りには行かないよ。でも、きっと帰っておいで!」と言うと和歌子先輩は車に乗り込んで走り去った。5月7日、天気は快晴だった。塩尻で“しなの”に乗り換えると、一路、小牧空港を目指した。そして、午前11時。飛行機は小牧空港を離陸した。遥か雲の下に紀伊半島を見ながら、飛行機は南下して行った。